【つの版】ウマと人類史24・匈奴漢王
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
290年、南匈奴の王族・劉淵は晋より建威将軍・五部大都督に任命され、漢光郷侯に封じられます。彼は幷州(山西省)の南匈奴五部族を統率して、晋の北方を守り、反乱を抑える責任者となったのです。
◆漢◆
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八王之乱
さて、晋の武帝は漢や魏が外戚や宦官に悩まされた反省として、皇族を各地に封建し、広大な藩国と軍事力を与えていました。楊駿を粛清する時もこれらの王が役に立ったので目的はよかったのですが、当然ながら彼らは次の皇帝を目指して勢力を争います。また領国を離れて中原に軍隊を率いて駐屯し、首都洛陽を脅かす者も現れ、いよいよもって乱世が近づいて来ます。
後坐部民叛出塞、免官。永寧初、成都王穎表淵行寧朔將軍、監五部軍事。(魏書)元康末、坐部人叛出塞免官。成都王穎鎮鄴、表元海行甯朔將軍、監五部軍事。(晋書)
元康年間の末(299年)、劉淵は部族の人民が反乱を起こし塞(長城)を出たため免官となった。永寧初年(301年)、成都王の司馬穎が鄴に駐屯すると、劉淵を行甯朔将軍・監五部軍事に任命した。
魏書と晋書はほぼ同じ事件を伝えています。またこの頃、宮中では賈皇后と皇太子の司馬遹(母は側室)が対立し、299-300年にはついに皇太子が廃位・殺害されます。これは西方で強大な兵権を握っていた趙王司馬倫(司馬懿の末子)の示唆とされ、彼は大義名分を得て洛陽に入るや賈皇后一派を皆殺しにしました。張華もこの時に殺されています。司馬倫は董卓めいて位人臣を極め、天下の名士を募って要職につけますが、反対派は次々と粛清し、301年正月には自ら皇帝に即位します。
これに対し、許昌に駐屯していた斉王司馬冏(武帝の甥)は各地の諸侯王に決起を呼びかけて挙兵します。成都王司馬穎(武帝の第19子)は鄴に駐屯しており、呼応して挙兵し、劉淵を味方につけるため官位を再び与えたのです。甯朔とは北方を安寧とする意で、監五部軍事とは五部大都督を呼び替えたものに過ぎず、彼を匈奴を統率する者として公認したわけです。ただ成都王は劉淵を人質として鄴にとどめ、兵は与えませんでした。無言の軍事的圧力を持ち、劉淵という貴種の権威を握っていればよかったのです。
司馬倫は同年4月に滅ぼされ、幽閉されていた恵帝が復位しますが、今度は洛陽に入った諸侯王の間で権力争いとなり、302年には斉王が、304年正月には長沙王司馬乂が殺され、成都王が丞相・皇太弟に立てられ実権を握ります。しかし成都王は守りが弱い洛陽を去り、自らの地盤である鄴に戻って間接統治することにします。劉淵はこの時、ついに自立を図りました。
及齊王冏、長沙王乂與穎等自相誅滅、北部都督劉宣等竊議反叛、謀推淵為大單于。時淵在鄴、乃使呼延攸以此謀告之。淵請歸會葬、穎不許。穎為皇太弟、以淵為太弟屯騎校尉。(魏書)
斉王冏と長沙王乂が司馬穎に誅滅されると、北部都督の劉宣らは密かに反乱を企み、劉淵を大単于にしようとした。時に劉淵は鄴におり、使者の呼延攸からこの謀を告げられた。劉淵は(偽って)「葬儀に出席したいので帰郷させてください」と申し出たが、司馬穎は許さなかった。司馬穎が皇太弟となると、劉淵は屯騎校尉に任命された。
晋書によると、劉宣は劉淵の従祖(祖父の弟)にあたります。彼は儒学や漢書を学び、漢の建国の名臣・蕭何、中興の功臣・鄧禹に憧れていた云々とありますが、劉淵が漢を建てたことからの伝説かも知れません。また呼延攸は匈奴王族の姻族たる呼延氏の出自で、劉淵の母方の従弟かつ妻の弟にあたります。父の翼は大物ですが、彼は無能だったといいます。
惠帝失馭、寇盜蜂起。元海從祖故北部都尉・左賢王劉宣等竊議曰「昔我先人與漢約為兄弟、憂泰同之。自漢亡以來、魏晉代興、我單于雖有虛號、無復尺土之業、自諸王侯、降同編戶。今司馬氏骨肉相殘、四海鼎沸、興邦復業、此其時矣。左賢王元海姿器絕人、幹宇超世。天若不恢崇單于、終不虛生此人也。」於是密共推元海為大單于。乃使其党呼延攸詣鄴、以謀告之。元海請歸會葬、穎弗許。乃令攸先歸、告宣等招集五部、引會宜陽諸胡、聲言應穎、實背之也。穎為皇太弟、以元海為太弟屯騎校尉。(晋書)
恵帝は政治の制御を失い、群盗が蜂起した。劉淵の従祖父でもと北部都尉・左賢王の劉宣らは、密かに会議して言った。「むかし我が先人は、漢と和約して兄弟となり、憂いもやすらぎも同じくした。漢が滅亡して以来、魏晋が次々に興ったが、我が単于は名ばかりあって少しの領土もなく、諸王侯から降って平民と同じだ。今、司馬氏は骨肉相争っており、四海の内は鼎のように沸騰している。匈奴を復興させるのは、この時である。左賢王劉淵の容貌と才能は、世に並ぶ者がない。天がもし単于とするためでなければ、この人を虚しく生まれさせたであろうか!」そこで劉淵を大単于に推戴しようと謀議し、呼延攸を鄴に差し向けて劉淵に報告させた。劉淵は(偽って)「葬儀に出席したいので帰郷させてください」と申し出たが、司馬穎は許さなかった。そこで呼延攸を先に帰らせ、成都王のためと称して劉宣らに五部匈奴を招集させ、宜陽(洛陽付近)の諸胡を味方に引き入れるよう命じた。言葉では司馬穎に呼応させ、実際は裏切るつもりだったのである。司馬穎が皇太弟となると、劉淵は屯騎校尉に任命された。
魏書の記述をだいぶ潤色してあります。この頃、幷州では飢饉が発生して漢人も胡人も苦しんでおり、長城の外や冀州など他の州へ難民となって移動したと石勒伝にあります。匈奴北部都尉の劉監などは、難民化した胡人を捕まえては奴隷として売り飛ばしていたといいます。まずは五部の混乱をまとめるために大単于を立てようとしたのでしょう。
宜陽とは洛陽市南西の宜陽県で、秦嶺山脈から東へ伸びる山々の端、洛河が山間から流れ出る渓谷にあり、諸胡と呼ばれる雑多な胡人が住んでいました。大都市洛陽のすぐ近くにも胡人はいたのです。春秋戦国時代にもこのあたりに「陸渾の戎」「伊洛の戎」と呼ばれる集団が割拠していましたし、殷商のむかしから羌族は洛陽や南陽付近にも広く住み着いていました。洛陽を背後から脅かすため、彼らを味方につけるのは理にかなっています。
兄亡弟紹
このまま成都王が天下を差配するかと思いきや、そうは行きません。
晉惠帝之伐穎也、以淵為輔國將軍、都督北城守事。及惠帝敗、以淵為冠軍將軍、封盧奴伯。(魏書)惠帝伐穎、次於蕩陰、穎假元海輔國將軍、督北城守事。及六軍敗績、穎以元海為冠軍將軍、封盧奴伯。(晋書)
晋の恵帝が司馬穎を征伐せんと蕩陰に赴いた時、劉淵は(司馬穎から)輔国将軍・都督北城守事に任命された。恵帝の六軍が敗れると、司馬穎は劉淵を冠軍将軍とし、盧奴伯に封じた。
304年7月、東海王の司馬越、豫章王の司馬熾らは恵帝を担いで成都王司馬穎を討伐せんとし、大軍を集めて蕩陰(河南省安陽市湯陰県、鄴の南40km)まで進軍しました。成都王は恐れおののきますが、勇気を振るって兵を派遣したところあっさり勝ってしまい、恵帝は鄴に連行されます。この時、成都王は劉淵を盧奴伯に封じたというのですが、盧は虜(捕虜、夷狄)、奴は匈奴の奴でしょう。漢魏晋の天子らが匈奴を服属させていたように、自らも匈奴から公式に承認を受けている、というアピールかと思われます。劉淵はずっと鄴にとどめられ、兵を率いて戦ってもいません。しかし東海王らは北東へ逃げ、幷州刺史の司馬騰、幽州刺史の王浚らに助力を求めました。
既而并州刺史司馬騰、幽州刺史王浚、起兵伐穎、穎師戰敗。淵謂穎曰「今二鎮跋扈、眾踰十萬、恐非宿衞及近郡士民所能禦之。淵當為殿下還說五部、鳩合義眾、以赴國難。」穎悅、拜淵為北單于、參丞相軍事。(魏書)
并州刺史東嬴公騰、安北將軍王浚、起兵伐穎、元海說穎曰「今二鎮跋扈、眾餘十萬、恐非宿衛及近都士庶所能禦之。請為殿下還說五部、以赴國難。」穎曰「五部之眾可保發已不?縱能發之、鮮卑烏丸勁速如風雲、何易可當邪?吾欲奉乘輿還洛陽、避其鋒銳、徐傳檄天下、以逆順制之。君意何如?」元海曰「殿下武皇帝之子、有殊勳於王室、威恩光洽、四海欽風、孰不思為殿下沒命投軀者哉、何難發之有乎!王浚豎子、東嬴疏屬、豈能與殿下爭衡邪!殿下一發鄴宮、示弱於人、洛陽可復至乎?縱達洛陽、威權不復在殿下也。紙檄尺書、誰為人奉之!且東胡之悍不逾五部、願殿下勉撫士眾、靖以鎮之、當為殿下以二部摧東嬴、三部梟王浚、二豎之首可指日而懸矣。」穎悅、拜元海為北單于、參丞相軍事。(晋書)
幷州刺史・東嬴公の司馬騰、幽州刺史・安北将軍の王浚は、兵を起こして司馬穎を討伐し、その軍勢を撃ち破った。そこで劉淵は司馬穎に進言した。「いま二鎮が跋扈し、軍勢は10万余もおり、この付近の軍勢だけでは防ぐことはできません。私は殿下のために五部匈奴へ還り、説得して義勇兵を集め国難に当たりたいと存じます」
(晋書では)司馬穎はこう答えた。「五部匈奴で立ち向かえるだろうか?(敵軍にいる)鮮卑や烏桓の騎兵は風雲のように強く速い。わしは天子を奉じて洛陽に戻り、敵の鋭い攻撃を避け、おもむろに天下へ檄文を飛ばし、逆賊を制圧するつもりだ。どう思う?」劉淵はこう言った。「殿下は武帝の御子で殊勲もありますが、東嬴公は皇族ながら縁遠く(武帝の叔父の孫)、王浚などは小僧に過ぎません。敵に弱みを見せれば威権を失い、洛陽を取り戻すことも難しくなり、檄文も紙切れ同然となります。東胡(鮮卑・烏桓)は勇猛とは申せ、我が匈奴五部を凌ぐものではありません(冒頓単于の時に東胡を服属させた)。殿下が安んじて留まっておられれば、五部のうちの二部で東嬴公を、三部で王浚を討ち取りましょう」喜んだ成都王は、劉淵を北単于・参丞相軍事に任命し、匈奴五部のもとへ帰らせた。
晋書は例によってだいぶ潤色していますが、こういう芝居がかった長台詞は、だいたい後世にそれらしく付け加えたものです。ともあれ劉淵はついに鄴を脱出し、故郷へ戻ったのです。251年生まれとして時に54歳、成都王はこの時25歳の若造でした。
淵至左國城、劉宣等上大單于之號、二旬之間、眾便五萬、都於離石。淵謂宣等曰「帝王豈有常哉、當上為漢高、下為魏武。然晉人未必同我、漢有天下世長、恩德結於民心、吾又漢氏之甥、約為兄弟、兄亡弟紹、不亦可乎?今且可稱漢、追尊後主、以懷民望。」乃遷於左國城、自稱漢王、置百官、年號元熙、追尊劉禪為孝懷皇帝。攻擊郡縣。(魏書)
劉淵が左国城(左部帥の居城)に至ると、劉宣らは「大単于」の号を献上した。二旬(20日)の間に5万の兵が集まり、離石(呂梁市離石区)を都とした。劉淵は劉宣らに告げて言った。「帝王は常にあるものではない。上は漢の高祖(劉邦)で、下は魏の武帝(曹操)だ。晋人は未だ我らと同じでないが、漢は天下を保つこと長きにわたり、恩徳を民心と結んでいる。我が匈奴はまた漢氏の甥(外甥、娘婿)であり、和約して漢と兄弟となった。兄が亡べば弟が後を継ぐ(紹)のは道理だろう。いま漢を称して後主(蜀漢の劉禅)を追尊し、もって民望を懐けよう」すなわち左国城に遷り、漢王と自称して百官を置き、年号を元熙とし、劉禅に追尊して孝懐皇帝とした。そして郡県を攻撃した。
匈奴の単于が漢王を自称し、晋から自立したのです。魏は220年からわずか45年で晋に禅譲してしまい、晋もそれから40年ほど経過して、天下は四分五裂しています。漢は王莽による簒奪からも復活し、前後400年にも渡ってチャイナを統一していたのですから、その権威は未だに相当なものでした。現代でもチャイナの民の9割以上は「漢族(漢民族)」と呼ばれ、漢字・漢語を用いているほどです。その漢の天子の血を母方からでも受け継ぎ、劉氏と称し、漢光郷侯に封じられてもいるのですから、劉淵が漢王を名乗るのは正統かつ正当でさえありました。
いきなり天子・皇帝とならないのは、劉備がまず漢中王となったように、段階を踏んで正統性をアピールするためです。劉備は劉禅に追尊され昭烈帝と呼ばれましたが、劉禅は魏に降伏して帝位を棄てたのち世を去ったので、皇帝としての追尊はされていませんでした。
晋書ではこれについて、例によって麗々しく潤色しています。
元海至左國城、劉宣等上大單于之號、二旬之間、眾已五萬、都于離石。王浚使將軍祁弘率鮮卑攻鄴、穎敗、挾天子南奔洛陽。元海曰「穎不用吾言、逆自奔潰、真奴才也。然吾與其有言矣、不可不救。」於是命右於陸王劉景、左獨鹿王劉延年等率步騎二萬、將討鮮卑。
劉淵が左国城に至ると、劉宣らは「大単于」の号を献上した。二旬の間に5万の兵が集まり、離石を都とした。(8月に)王浚は将軍の祁弘に鮮卑を攻撃させ、司馬穎は敗北し、天子を奉じて南の洛陽へ逃げた。劉淵は「司馬穎はわしの言葉を用いず、逆に自ら逃げて潰れた。真の奴才(アホ)だ!だがわしも約束した以上、救わぬわけにもいくまい」と言い、右於陸王の劉景と左獨鹿王の劉延年らに歩騎2万を率いさせ、鮮卑を討伐させることにした。
劉淵が勝手に大単于とか名乗るから司馬穎がビビって逃げたのかも知れませんが、大義名分は大事なので援軍は出します。しかし、その時です。
劉宣等固諫曰「晉為無道、奴隸禦我。是以右賢王猛不勝其忿。屬晉綱未馳、大事不遂、右賢塗地、單于之恥也。今司馬氏父子兄弟自相魚肉、此天厭晉德、授之於我。單于積德在躬、為晉人所服、方當興我邦族、復呼韓邪之業。鮮卑烏丸可以為援、奈何距之而拯仇敵!今天假手於我、不可違也。違天不祥、逆眾不濟。天與不取、反受其咎。願單于勿疑。」
劉宣らは諌めた。「晋は無道で、我らを奴隷としました。かつて右賢王の劉猛は憤激して挙兵しましたが、晋がまだ堅固だったので敗れ、単于の恥となりました。いま司馬氏が互いに食らいあうのは、天が晋の徳を厭い、我らに天命を授けようとしているのです。単于(劉淵)は徳を身に積みながら、晋人に服従しておられました。今こそ我が民族を復興し、呼韓邪単于の(匈奴中興の)業を興す時です。鮮卑や烏桓はむしろ援軍とすべきで、彼らと対立して仇敵(晋)を助けるなど、もってのほかです。いま天は我らに手を貸しており、違うべきではありません。天意に背き民衆に逆らえば、天罰を受け、計画は成就しません。天の与えるところを取らねば、却ってその咎を受けます。願わくは単于よ、疑われませぬよう!」
元海曰「善。當為崇岡峻阜、何能為培塿乎!夫帝王豈有常哉、大禹出於西戎、文王生於東夷、顧惟德所授耳。今見眾十餘萬、皆一當晉十、鼓行而摧亂晉、猶拉枯耳。上可成漢高之業、下不失為魏氏。雖然、晉人未必同我。漢有天下世長、恩德結于人心、是以昭烈崎嶇於一州之地、而能抗衡於天下。吾又漢氏之甥、約為兄弟、兄亡弟紹、不亦可乎?且可稱漢、追尊後主、以懷人望。」乃遷于左國城、遠人歸附者數萬。
劉淵は答えて言った。「もっともだ。大きなこと(崇岡峻阜、山、建国)を為すにあたり、小さなこと(培塿、丘、司馬穎)を気にすることはない。そもそも帝王には常なく、大禹は西戎(蜀)で生まれ、文王は東夷で生まれた(?)が、ただ徳を積んだから天命を授かったのだ。いま我が兵は10余万おり、みな一人で晋兵の十人に匹敵する。進軍すれば乱れた晋を枯れ木のように倒すことができよう。最上でも漢の高祖の業をなし、最低でも魏武には劣らぬだろう。ただ晋人は必ずしも我ら匈奴と心を同じくはしていない。漢は長く天下を治め、恩徳によって人心を纏めてきた。だから昭烈帝(劉備)は辺境の一州(益州)に拠りながら、(漢を称して)天下を争うことができた。我が匈奴は漢の外甥(娘婿)に当たり、盟約して兄弟となった。兄が亡べば弟が継ぐのは道理であろう。国号を『漢』とし、後主(劉禅)に追尊すれば、(漢人の)人望を集められるだろう」かくて(成都王を支援せず)左国城に遷り、遠方の人々数万が帰順した。
魏は漢を禅譲で、蜀漢を軍事力で滅ぼしたので、漢にとっては仇敵です。そのため曹操はやたら貶められています。晋にとっても先代の魏は貶めたほうが都合がいいのですが、一応司馬炎は魏から禅譲されたので、正統王朝として扱わないと晋の正統性に傷がつきます。劉淵は魏晋を否定し、前漢・後漢・蜀漢を正統王朝とし、その流れを受け継いでいるとしたのです。
漢朝再興
永興元年、元海乃為壇於南郊、僭即漢王位、下令曰「昔我太祖高皇帝以神武應期、廓開大業。太宗孝文皇帝重以明德、升平漢道。世宗孝武皇帝拓土攘夷、地過唐日。中宗孝宣皇帝搜揚俊乂、多士盈朝。是我祖宗道邁三王、功高五帝、故卜年倍于夏商、卜世過於姬氏。而元成多僻、哀平短祚、賊臣王莽、滔天篡逆。
晋の永興元年(304年)、劉淵は左国城の南郊に壇を設けて祭儀を行い、漢王を僭称して告げた。「むかし我が太祖高皇帝(劉邦)は、神武を以て期に応じ、大業を開いた。太宗孝文皇帝(文帝)は明徳を重ね、漢道を平和に導いた。世宗孝武皇帝(武帝)は領土を広げ夷狄を打ち払い、領土の広さは唐(堯)の世を超えた。中宗孝宣皇帝(宣帝)は賢者を探し出して登用し、多くの士が朝廷に満ちた。我が祖宗の道は三王(夏・商・周)を越え、功は五帝より高く、年数は夏商に倍し、世代は姫氏(周)を越えた。しかし元帝は僻み多く、哀帝・平帝は短命に終わり、賊臣王莽が天を侮って簒逆した。
我世祖光武皇帝誕資聖武、恢復鴻基、祀漢配天、不失舊物、俾三光晦而復明、神器幽而復顯。顯宗孝明皇帝、肅宗孝章皇帝累葉重暉、炎光再闡。自和安已後、皇綱漸頹、天步艱難、國統頻絕。
我が世祖光武皇帝(光武帝)は、生まれつき聖武を有し、国の大いなる基礎を回復し、漢の祭祀を天に配し、古い物を失わず、三光(日月星辰)に光を取り戻し、神器を再び顕にした。顕宗孝明皇帝(明帝)と肅宗孝章皇帝(章帝)は、歴代光を重ね、炎光(漢)は再び開かれた。和帝と安帝以後、皇綱は次第に傾き、天の歩みは艱難となり、皇統はしばしば絶たれた。
黃巾海沸於九州、群閹毒流于四海、董卓因之肆其猖勃、曹操父子凶逆相尋。故孝湣委棄萬國、昭烈播越岷蜀、冀否終有泰、旋軫舊京。何圖天未悔禍、後帝窘辱。
黄巾が九州(天下)を沸き立たせ、群閹(宦官)が毒を四海に流し、董卓がこれに乗じて猖勃を思いのままにし、曹操父子が凶逆(簒奪)しようとした。孝愍皇帝(魏晋でいう献帝、蜀漢が孝愍皇帝と諡した)は万国を委棄(魏に禅譲)したが、昭烈帝(劉備)は岷蜀に移り逃れ、漢室が終焉しないよう、旧京(長安)を回復しようとした。残念ながら天は災いを降し、後帝(劉禅)は捕虜の恥辱を受けた。
自社稷淪喪、宗廟之不血食四十年於茲矣。今天誘其衷、悔禍皇漢、使司馬氏父子兄弟迭相殘滅。黎庶塗炭靡所控告。孤今猥為群公所推、紹修三祖之業。顧茲尪暗戰惶靡厝。但以大恥未雪社稷無主。銜膽棲冰、勉從群議。」
(劉禅が降伏して)社稷の祭祀が喪失されてから、(漢の)宗廟は子孫が絶えて四十年にもなる。いま天はこれを憐れみ、司馬氏の父子兄弟を互いに殺し合わせ、人民は塗炭の苦しみを受けている。私は今みだりに諸侯に推され、三祖(太祖劉邦・世祖劉秀・烈祖劉備)の業を受け継ぎ修めんとする。私は弱く愚かで、大業に戦々恐々としているが、大恥はいまだ雪がれておらず、社稷には主が無い。この復讐(嘗胆)を誓い、努めて群議に従おう」
乃赦其境內、年號元熙、追尊劉禪為孝懷皇帝、立漢高祖以下三祖五宗神主而祭之。立其妻呼延氏為王后。置百官、以劉宣為丞相、崔游為御史大夫、劉宏為太尉、其餘拜授各有差。
かくて国内に大赦を出し、元熙と建元した。劉禅に追尊して孝懐皇帝とし、漢の高祖以下の三祖と五宗(文帝・武帝・宣帝・明帝・章帝)の神主(位牌)を建てて祭った。また妻の呼延氏を王后に立てた。百官を置き、劉宣を丞相に、(師匠の)崔游を御史大夫に、劉宏を太尉に任命し、他の者は序列に応じて任命した。
魏書よりだいぶ長くなりましたが、夷狄の代表である匈奴の大単于が漢王を称するには、これぐらいの大義名分と歴史認識が必要です。晋書の劉淵は儒学や史書を学んだインテリですから、この程度の理論立てはスラスラと出て来ます。かくして幷州に匈奴による漢王国が建国(復興)されましたが、天下はいまだ晋のもので、傀儡とはいえ晋の天子もいます。漢王劉淵はこれらの勢力と戦い、天下を統一できるでしょうか。
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【続く】
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