【つの版】大秦への旅07・大秦景教
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
かつて大秦と呼ばれた拂菻(Pu-rum,[東]ローマ帝国)は、西突厥やハザールを介して唐と交流を持っていました。その使節には「大徳僧」もいたようです。東ローマ帝国の国教はキリスト教ですが、唐ではキリスト教はどのように受容されたのでしょうか。ざっくり見ていきます。
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大秦景教
キリスト教はユダヤ教から派生した宗教です。当初はユダヤ教主流派に対する改革運動、主流派からみれば異端(ユダヤ教ナザレ派)でしたが、熱心な伝道と教団の経営努力によってユダヤ教から分離した新興宗教となり、ローマ帝国東部(ギリシア語圏)を中心にパルティアへも広がって行きました。迫害はされましたが(当初は)武装蜂起しなかったため、社会不安に怯える人々を信者として取り込み、中層・上層部にも改宗者を獲得します。
301年にはアルメニア王国がキリスト教を国教とし、313年にはローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認、380年には皇帝テオドシウスによりキリスト教がローマ帝国の国教に定められます。それまでには教義を巡って激しい論争があり、325年のニカイア公会議では「キリストは父なる神より劣る」とするアリウス派が異端とされ、三位一体の教義が確立します。
次いで起きたのがネストリウス派論争です。これはキリストの神性と人性が分離しており、マリアは人間イエスを産んだに過ぎず「神の母」ではないとする説でしたが、431年のエフェソス公会議で異端と断定されました。破門されてローマ帝国での居場所を失ったネストリウス派は、東のサーサーン朝ペルシア帝国に亡命します。ペルシアはゾロアスター教を国教としており、他の宗教をしばしば迫害しましたが、当時のペルシア皇帝は比較的狂信的ではなく、現実的な判断をして彼らを受け入れたようです。
498年、ペルシアの首都セレウキア・クテシフォンにネストリウス派教会の総主教が立ちました。のちのアッシリア東方教会です。彼らはセム諸語のひとつであるアラム語(シリア語)を用い、シリア文字を使用しました。また彼らは交易路を用いて東方へ伝道を行い、中央アジアのメルブやビシュケクに拠点を築きました。そしてさらに東へ向かい、ついに唐に至ったのです。これが景教で、同じキリスト教でも東ローマ帝国とは異なる宗派でした。
『大秦景教流行中国碑』によると貞観9年(635年)、大秦国の大徳・阿羅本が長安に至り、宰相や皇帝に歓迎され、寺院が建立されました。この碑が建立されたのは781年ですし、いろいろ誇張はありますが、貴重な史料なので原文をかいつまんで読んでみましょう。
景教流行
まず、景教の教義が天地創造の初めから説き起こされます。
粵若常然眞寂、先先而无元、窅然靈虗、後後而妙有。惣玄摳而造化、妙衆聖以元尊者、其唯我三一妙身、无元真主、阿羅訶歟。
三一の妙身とは三位一体、阿羅訶とはシリア語アラーハー(神)です。これに続いて、この神が四方・陰陽・天地・日月など万物を創造し、人と女(アダムとイヴ)を造ったこと、サタン(娑殫)によって人が純粋性を失い堕落したこと、人が知恵を用いて迷妄に陥ったことを述べています。
於是、我三一分身景尊弥施訶、戢隱真威、同人出代。神天宣慶、室女誕聖於大秦、景宿告祥、波斯覩耀以来貢。圓廿四聖有說之舊法、理家國於大猷。設三一浄風無言之新教、陶良用於正信。制八境之度、鍊塵成真。啓三常之門、開生滅死。懸景日以破暗府、魔妄於是乎悉摧。棹慈航以登明宮、含靈於是乎既濟。能事斯畢、亭午昇真。
三位一体の分身である景尊の弥施訶(メシア)は、真の姿を隠し、人と同じになって世に出た。天使(ガブリエル)が祝福を伝える(受胎告知)と、室女(処女マリア)は聖者を大秦(ローマ)に産み、景宿(ベツレヘムの星)が吉祥を告げると、波斯(ペルシア、東方の三博士)は輝きを観て貢物を持ってきた。24人の聖者(預言者)の説いた旧法(旧約聖書)を成就し、家国を大猶(猶太、ユダヤ)におさめ、三一浄風(三位一体の聖霊)の無言の新教を設け、云々。事既に終わるや白日昇天した。
ジーザスがブッダか太上老君めいて表現されています。彼が復活後に昇天したことは聖書にも書かれていますが、十字架上の死や復活はややこしいのでここでは省かれています。続いて彼の言葉が27冊の経典(新約聖書)に編纂されたこと、弟子たちが十字を印として世界中に伝道したこと、礼拝や安息日について、その教えを「景教(光の教え)」と称することを記します。
太宗文皇帝、光華啓運、明聖臨人、大秦國有上徳曰阿羅本、占青雲而載真經、望風律以馳艱險。貞觀九祀、至扵長安。帝使宰臣房公玄齡、惣仗西郊、賔迎入內。翻𦀰書殿、問道禁闈。深知正真、特令傳授。
貞観9年(635年)、大秦国の上徳・阿羅本(中古音:ʔɑ lɑ puənX)が長安に来たこと、太宗皇帝が宰相・房玄齢を遣わして歓迎したことが記されています。またこれに続いて、経典が翻訳されて太宗に教義が説かれたこと、貞観12年(638年)7月に長安の義寧坊に勅命により大秦寺が建立されたこと、その壁に太宗の画像が描かれたことが記されます。阿羅本も「経・像」を持ってきたとされますから、聖画(イコン)が置かれたのでしょう。
房玄齢とは太宗の腹心で、玄武門の変を成功させて太宗を帝位につけ、宰相となって唐初の国政や正史編纂を司った重要人物です。彼を出迎えに行かせるほどに阿羅本は重要人物だったのでしょうか。『旧唐書』『新唐書』にこのことは記されていませんが、『唐会要』にはあります。サーサーン朝からの親善使節的な存在だったのかも知れません。
案西域圖記及漢魏史策、大秦國南統珊瑚之海、北極衆寶之山、西望仙境花林、東接長風弱水。其土出火𦀸布、返魂香、明月珠、夜光璧。俗無寇盜、人有樂康。法非景不行、主非德不立。土宇廣濶、文物昌明。
大秦国の素晴らしさを史書を引用して褒め称えています。まあネストリウス派は大秦・拂菻を追放されていますし、当初は大秦寺ではなくて波斯寺と呼ばれたそうですが。
この後、高宗(在位:649-684)は阿羅本を鎮国大法主とし諸州に景教の寺院を建立させましたが、武則天は仏教を重んじたため攻撃を受け、一時衰退します。ペルシア本国もアラブに滅ぼされ、キリスト教徒は同じ神からの啓示を信じる「啓典の民」として一応は庇護されたものの、二級市民として扱われ、人頭税を納めるよう命じられました。
玄宗(在位712-756)の時代には寧王李憲ら5人の王が参詣し、再び唐朝の庇護を受けるようになりました。天宝元載(742年)には大将軍の高力士が皇帝の御真影を寺内に安置させ、絹100匹を賜って祀らせています。天宝3載(745年)には大秦国から僧の佶和(ゲワルギス)が訪れ、この時に波斯寺を改めて大秦寺としたともいいます。
安史の乱後の肅宗・代宗も景教を庇護し、続く徳宗の建中2年(781年)に『大秦景教流行中国碑』が建立されました。しかし唐は既に内乱で衰退しており、安史の乱を起こしたのがソグド人と突厥人の混血だったこともあり、外国人(非漢人)とその文化を「蛮夷」として見下す風潮が強まりました。
会昌5年(845年)、武宗は仏教や三夷教(拝火教・摩尼教・景教)を弾圧し、多数の寺院を廃止して寺領・奴婢を没収し、僧尼を還俗させました。このとき大秦寺も破壊され、『大秦景教流行中国碑』は地中に埋められ、チャイナにおける景教の流行は衰滅したのです。
夷教東漸
他にも唐での景教の史料はいくつか存在し、西域の石窟などに経典や壁画も遺っています。唐の人々はキリスト教を認知しており、教義を知る機会がありました。仏教や道教にもキリスト教に由来する要素が含まれているかも知れません。遡ればゾロアスター教に由来する要素の方が多い気がしますが。
ネストリウス派の教団自体は健在で、天山ウイグル王国では仏教やマニ教と混在していました。1007年にはモンゴル高原の有力部族であったケレイトにメルブ経由で伝道し、改宗させています。この影響でウイグルやケレイトの子孫にはネストリウス派キリスト教徒が多く、モンゴル帝国の王侯貴族にも多数の信者が存在しました。しかしモンゴル帝国崩壊後、西ではイスラム、東ではチベット仏教に押されて衰退し、ネストリウス派キリスト教徒は中央アジアから消滅して行きました。現代ではイラクやトルコに分布するほか、インドやアメリカにもおり、信徒数は40万余りいるそうです。
唐で流行した景教が、長年遣唐使を送っていた日本にも何らかの形で伝来した可能性はあります。真言密教など仏教の経典や図像、あるいは暦の中などに紛れ込んでいるという指摘はいくつかあります。ただ日本で見つかるそうした遺物は、むしろマニ教のものが多いようです。
マニ教は3世紀にサーサーン朝ペルシアで生まれた宗教で、教祖のマニがグノーシス主義・キリスト教・ゾロアスター教・仏教をミックスして造り出しました。相当に怪しげではありますが、かなり広範囲に伝播して長い命脈を保っており、キリスト教の聖人アウグスティヌスもかつてマニ教徒だったと自ら語っています。チャイナには7世紀末に伝来し、安史の乱後にウイグルにも伝わりました。さらに仏教や道教、弥勒教との習合を深めて秘密結社の崇める宗教となり、宋や元、明代にまで恐れられました。
秦氏到来
さて、それでは本題です。倭国・日本に渡来帰化した秦氏は、大秦から来た景教徒だったのでしょうか?
ネストリウス派キリスト教がチャイナに渡来した記録上の最古は西暦635年ですが、倭国に秦氏が百済から渡来したのは応神天皇の時代とされ、『日本書紀』の年代では3世紀末ですが、おそらく120年を足した5世紀初頭です。ネストリウスが異端とされたエフェソス公会議は431年で、『日本書紀』によれば允恭天皇、チャイナの史書では倭讃か倭珍が倭王の頃です。
倭珍は「使持節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と自称しており、朝鮮半島には秦韓(辰韓)と呼ばれる地域が存在しました。辰韓・弁辰の人々は魏志東夷伝に「秦の労役を逃れてやってきた」と記され、古いタイプのチャイナ語(秦語)を話しており、これはのちの新羅や任那・加羅でも同じでした。
608年には裴世清が「竹斯国の東に秦王国があり、住人は華夏(チャイナ)と同じ」と報告しています。倭国の秦氏は自ら「秦の始皇帝の子孫」と称しており、これは眉唾ものとしても、チャイナ(秦)にルーツを持つと自他ともに認めています。彼ら秦人が、なにか変わった宗教を奉じているとは書かれていません。顔つきや言語が大宛や安息めいていたとか、そうした記録もありません。華夏と同じ、秦人(チャイニーズ)なのです。
そんなわけで、論理的に考えれば秦氏が景教徒のはずがありません。では、なぜそんな説が唱えられ、少なくない数に信じられているのでしょうか。
◆聖者◆
◆行進◆
【続く】
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