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【つの版】倭国から日本へ13・日出處天子

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

西暦600年に倭王が隋に使者を遣わしましたが、蛮夷らしくおかしなことを言うので天子は呆れてしまいました。まあ漢代からチャイナにしばしば朝貢していた歴史ある遠方の国なので、それなりに処遇して帰らせたようです。

隋の高祖文帝楊堅は西暦604年に崩御し、次男の晋王楊広が跡を継ぎましたが、後に隋を崩壊させた暴君・暗君として唐から「(燃焼させ融かす)」と悪諡を贈られ、史上では「煬帝(倭音:ようだい)」と呼ばれます。彼は8月に即位すると翌605年に「大業」と改元しました。この時代に倭国は再び隋へ使者を派遣しています。

◆日◆

◆丸◆

日出處天子

大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子、致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
大業三年(607年)、その王の多利思比孤が(再び)遣使朝貢した。使者がいうには「海西の菩薩天子が、重ねて仏法を興すと聞きましたので、(倭王は私を)遣わして朝拝させ、あわせて沙門(僧侶)数十人を仏法の修学に来させました」。その国書にいうには「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙(つつが)なきや」云々。帝(煬帝)はこれを見て悦ばず、鴻臚卿(外務大臣)に命じて言われた。「蛮夷の書に無礼あり。再び上聞するなかれ!」

またも倭国の使者は隋の天子を呆れさせ、怒らせてしまいました。外交儀礼とか国際秩序をちゃんとわきまえているのでしょうか。海西の菩薩天子とか仏法を敬っているのはいいとしても、蛮夷の王が「日出ずる處(ところ)の天子」と名乗り、隋の天子を「日没する處の天子」と呼ぶとは無礼者です。

この「日出處」「日沒處」は仏典『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出處是則東方、日沒處是則西方」とあり、単に東西の方角を表す仏教用語です。『大智度論』は5世紀初めに鳩摩羅什が漢訳しており、倭国に伝来していてもおかしくありません。

また南朝梁の『職貢図』中に、西域の胡蜜檀国(タジキスタンのドゥシャンベ付近)からの使者の図に付された添え文があり、北宋模本では「来朝。其表曰、揚州天子、出處大國聖主」となっていますが、張庚模本は「来朝貢。其表曰、揚州天子、日出處大國聖主」となっています。後者の方が意味が通り、前者は字が欠落しています。揚州とは梁の都・建康(南京)をいい、西域から見て日の出ずる處(東方)の大国の天子・聖主であると梁の武帝を敬っている文章です。梁の武帝は仏教を尊崇したことで有名でした。

「海西の菩薩天子」とは、即位前の591年に天台智顗から菩薩戒を受けた煬帝のことともいいますが、父の高祖文帝楊堅を指すともいいます。『隋書』高祖本紀によれば、楊堅は馮翊(陝西省大茘県)の般若寺で誕生し、尼によって養育されたといい、仏教と縁が深い皇帝でした。

『続高僧伝』巻26によると、この尼は智仙といい、彼に「那羅延」という幼名を与えました。インドのヴィシュヌ神の異名ナーラーヤナに由来し、仏教においては那羅延堅固天、すなわち金剛力士に相当します。金剛不壊の肉体となって元気に長生きするよう名付けられた彼は、天下を統一する天子となり、64歳まで生きました。

574年、北周の武帝は儒教・周礼を重んじ、仏教寺院を破壊して財産を没収し、僧侶を還俗させて税を課しました。これに対し、楊堅は禅譲を受けて即位すると国の政策として仏教を復興・振興します。国立寺院の大興善寺を建立し、晩年には全国に仏舎利塔を建立しています。仏教以外の宗教(道教・儒教)も排斥はしませんでしたが、仏教を主として道・儒を副としました。ゆえに「菩薩天子」と讃えられ、倭国にも名声が届いたのでしょう。

仏教は信徒の階級や国家・民族を超越し、一切を相対化する世界宗教ですから、倭国もこの世界観にのっとり「仏法のもとでは対等だ」として隋に対等外交を挑もうとしたのでしょう。煬帝が怒ったのは「日出處・日沒處」というより(それはそれでムカつきますが)蛮夷の王がチャイナの皇帝と対等に「天子」という称号を用いたのが気に障ったものと思われます。まあ匈奴の単于も「天所立匈奴大単于」とか名乗っていましたが、東突厥の啓民可汗は文帝の宗室の娘(義成公主)を娶って姻戚になっており、隋は下に見ていましたから、気が強い煬帝には余計に気に食わなかったのでしょう。

「無恙」は「病気や災難(恙)がない、無事である」ことを意味する慣用句で、ダニ目のツツガムシとは本来無関係です。ただ「恙虫」という妖怪がもたらす病気とされていたのが、実際にダニの一種による感染症だと判明し、この虫が後からツツガムシと名付けられています。

この時の倭国の使者も、『隋書』煬帝紀には記されていません。ただ返答の使者を派遣したことは『隋書』倭国伝にあります。

隋使到倭

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。
翌年(大業4年、西暦608年)、上(煬帝)は文林郎の裴清(裴世清)を使者として倭国に派遣した。

いかに無礼な蛮夷であっても、倭国はそれなりに歴史のある国で、仏教を崇敬するなど割と文明化しています。僧を留学させ天子に挨拶に来る程度には友好を望んでいます。また、このところ高句麗が突厥と結んで不穏な動きを見せており、それを牽制するために東夷の地域大国である倭国と友好関係を結んでおくのは悪くありません。そこで煬帝は返答の使者を倭国へ派遣し、どんな感じか様子を調べることにしました。

使者の役職は文林郎という下級の文官で、宮中の図書を管理する秘書省に所属し、定員は20人、官品は従八品という下っ端役人です。一応中央の役人なので、帯方郡所属の下っ端役人だった張政よりは格上かも知れません。本当の下っ端は彼らのさらに下で雑用に従事しています。

文林郎二十人、從八品。掌撰錄文史、檢討舊事。

使者の名は裴世清といいますが、唐の太宗皇帝の諱が「世民」なので、唐代に編纂された『隋書』では世を抜かして「裴清」とします。非常に一般的な文字なのに避諱するのは面倒だとは思うのですが、徐世勣が李勣になるぐらいですから、太宗の時代はそうされたようです。彼が倭国に到来したことは『日本書紀』推古紀にもあり、世を残して「裴世清」と記されています。

度百濟、行至竹島、南望𨈭羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。
(隋使の道のりは、山東半島から)百済に渡り、竹島(全羅南道の何処かの島)に至り、南に耽羅国(済州島)を望み、都斯麻国(対馬)を経て、遙か大海中に在る。また東に一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(筑紫)に至り、また東に秦王国(周防か豊前か)に至る。そこの人は華夏(中国)と同じく、(徐福渡来伝説がある亶洲と並び称される)夷洲ではないかと思われるが、疑わしく明らかにできない。また十余国を経て、(河内の)海岸に達する。竹斯国以東は、いずれも倭(ヤマト)の附庸(属国)である。

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隋使の行程には何の問題もありません。魏志倭人伝の時は北部九州から出雲と但馬を経てヤマトとなっていましたが、今回は瀬戸内海航路です。高句麗と新羅を避け、百済を経て倭国へ行くにはこのルートが最善です。倭国から隋へも同じルートです。何をどう読めば「竹斯国にイ妥王がいた」となるのか、つのには理解できません。牽強付会もほどほどにして下さい。

秦王国は秦韓(新羅)から渡来帰化した在外華人(秦人)コミュニティで、周防か豊前(豊国)にあったのでしょう。文化や言語は倭風でなく中国風のままで、目撃した裴世清をびっくりさせており、王国というからには王を戴いていたようです。夷洲は呉の孫権が調査団を送り込んだ台湾のことで、ここでは秦から船出して「平原広沢を得て王となった」という徐福伝説と結びつき、かつ亶洲と混同されています。倭地に徐福が到来したかどうか議論はありますが、たぶん秦氏・秦人とは無関係だろうとつのは思います。秦氏は始皇帝の子孫と称しており、徐福の子孫とは名乗っていません。

かように倭地には倭人だけでなく、韓人・濊人・秦人・漢人なども混在していました。彼らが共に倭王を盟主・宗主として戴き、倭国という枠組みを形成していたのです。新羅・百済・高句麗・隋・突厥も同様です。

倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。既至彼都。
倭王は小德の阿輩臺(『北史』では何輩臺)を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角(太鼓と角笛)を鳴らして来迎した。十日後、また大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。そして彼の都に至った。

倭王は隋使を大歓迎します。隋の天子に無礼な蛮夷呼ばわりされていますから、文化的な大国らしいところをアピールしなければなりません。

其王與清相見、大悅、曰「我聞海西有大隋禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境內、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰「皇帝德並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。
その王は裴世清と相見え、大いに悦んでいうには、「私は海の西に大隋という礼儀正しい国があると聞いたので、使者を遣わして朝貢しました。私は夷人で、海の彼方の辺境に居住して礼儀を知りません。そのため自国の境内(都)に留まり、すぐには相見えなかったのです。いま道を清め、館を飾り、大使をお待ちしております。大国の新しい天子の徳化をお聞かせ願いたい」。裴世清は答えて言った。「皇帝の徳は二儀(天地)にひとしく、恩澤(めぐみ)は四海に流れております。王は徳化を慕っておられますゆえ、我が国は使者を来たらしめ、ここに皇帝のお言葉をお伝えします」。それから裴世清は引き上げて館に入った。その後、裴世清は人を遣わして、その王に伝えた。「朝命は既に伝えましたので、すぐに塗(道)を戒める(出発の準備をする)ことを願います」そこで宴を設けて客をもてなし、再び使者を裴世清に随伴させて(隋へ行かせ)方物を貢献した。

奥ゆかしく和やかに式典が執り行われます。裴世清と相まみえた倭王多利思比孤が推古天皇であれば、裴世清は「倭王は女性であった」と記録したでしょうが、どこにもそう書かれていません。推古天皇は御簾の後ろに隠れて頂き、蘇我馬子や厩戸皇子が言葉を取り次いで応対したのでしょうか。卑彌呼や臺與も女王だったのですから、別に隋は気にしないと思いますが。

倭使遣隋

そして倭使は隋へ赴き、煬帝に謁見して朝貢します。

(大業)四年…三月辛酉…壬戌、百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物。(隋書煬帝紀上

倭使は通り道である百済の使者と連れ立って隋に行ったようです。赤土とは東南アジアのマレー半島南端にあった国で、『隋書』南蛮伝に赤土国条があります。迦羅舍は不明ですが、その近辺の国でしょう。

倭国から隋への遣使(遣隋使)はこれで終わりではなく、大業6年(610年)にもあったことが煬帝紀に書かれています。

六年春正月…己丑、倭國遣使貢方物。

隋書倭国伝ではこれについては書かれず、こう締めくくられています。

此後遂絕。
この後、遂に(隋との往来は)途絶えた。

途絶えたのは、倭国ではなく隋の方が滅んだからです。なぜどのように滅んだのか……は後回しにして、この間の状況を『日本書紀』推古紀はどう記しているか確認してみましょう。

◆日◆

◆和◆

【続く】

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