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いろいろな資料集です。ご自由に活用して下さい。
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#古代史

【つの版】ウマと人類史EX12:河内馬牧

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  日本列島には多くの火山があり、各地に火山性草原が形成されました。また山が急峻で頻繁に台風が襲来するため、河川の周囲などにも氾濫原性の草原が形成されます。古墳時代に朝鮮半島からもたらされたウマはこれらの草原に適応し、倭国/日本で急激に数を増やしていくことになります。 ◆なんだ◆ ◆これは◆ 暗土地帯 国立研究開発法人・農研機構のサイトにある「日本土壌インベントリー」によれば、火山性草原を形成する「黒ボク土(アンドソル)」は日本

【つの版】ウマと人類史EX11:火山草原

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  古墳時代、4世紀後半に朝鮮半島から日本列島(倭国・倭地)へ輸入されたウマは急速に根付き、各地に牧が設けられ、6世紀には逆に朝鮮半島側へウマを輸出するようになりました。倭国は急激に軍事大国となり、高句麗には敵わぬまでも百済や新羅を抑えつけるほどにはなりましたが、それは一体なぜだったのでしょうか。この本を参考に振り返ってみましょう。  妄想が先走ったところもあるものの、日本列島で多くのウマが飼育されるようになったことについて結構納得

【つの版】ウマと人類史EX09:甲斐黒駒

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  4世紀後半、倭国には朝鮮半島から本格的にウマがもたらされます。ウマの飼育・繁殖・利用のノウハウも渡来人/帰化人によってもたらされ、倭国の各地に牧場が設立されました。これらについて見ていきましょう。 ◆馬◆ ◆娘◆ 天之斑駒 8世紀に編纂された『古事記』『日本書紀』によれば、スサノオが高天原に赴いた時、天斑馬/天斑駒(あめのふちこま)というウマがすでにいました。「天にいる斑毛の馬(駒=子馬)」の意です。スサノオはこれを捕まえて

【つの版】ウマと人類史EX07:馬車西来

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  欧州・中央ユーラシア・中東・インドと来て、今回は東アジアです。チャイナは古くから騎馬遊牧民の侵略を受けて来ましたが、ウマによって広い領域を征服・統治することも可能となりました。 ◆馬◆ ◆馬◆ 馬車西来 チャイナに飼育されたウマが考古学的に出現するのは、紀元前1200年頃、殷(商)王朝の後期からです。殷の都(大邑商)があった殷墟には複数の王墓があり、「車馬坑」という竪坑があって、二輪戦車(チャリオット)と2頭ないし4頭のウマ

【つの版】度量衡比較・貨幣14

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  8世紀初め頃、倭国は「日本」と国号を改め、君主は「天皇」と自称し、唐の律令を真似た「大宝律令」を制定します。銅銭の鋳造と流通も国家事業として進められ、708年には新たな銅銭「和同開珎」が鋳造されました。日本政府(朝廷)の発行したこれらの銅銭について見ていきます。 ◆銅◆ ◆和◆ 和同開珎 持統天皇は697年に退位し703年に崩御しますが、次の文武天皇は在位10年で707年に崩御し、子の首(おびと)は幼かったため持統の妹

【つの版】度量衡比較・貨幣13

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  倭国・日本は遣隋使・遣唐使を派遣してチャイナの制度を受け入れ、文明国の仲間入りを果たしました。唐の開元通宝を真似て独自の銭を鋳造してもいます。それまでにも古来交易はあり、様々な物品が貨幣として用いられていたはずです。古代倭国の貨幣について見てみましょう。 ◆鉄◆ ◆雄◆ 鉄鋌用銭 倭地・倭国では、古くは物々交換が自然に行われていたはずです。しかし弥生時代・古墳時代の遺跡からは、チャイナの金属貨幣である半両銭や五銖銭、王

【つの版】度量衡比較・貨幣08

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  古代ローマの貨幣について長々と見てきましたので、今回はペルシアや中央アジア、インドの古代貨幣についてざっくり見ていきましょう。 ◆月◆ ◆給◆ 安息銀銭 アケメネス朝ペルシア帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされた後、その領土の大部分はマケドニア人のセレウコス朝によって再統一されました。彼らは現地のペルシア人貴族の子女と通婚し、ギリシアとペルシアの文化が混交した文化が形成されていきます。セレウコス朝・プトレマイオス朝など

【つの版】度量衡比較・貨幣06

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  ローマ共和国の「第一人者」となったオクタヴィアヌスは、共和政を名目上保ったまま様々な特権を集め、事実上の「ローマ皇帝」となります。これよりローマは事実上の帝国となり、「ローマの平和」を迎えることとなります。古代ローマ帝国の貨幣を見ていきましょう。 ◆THERMAE◆ ◆ROMAE◆ 帝国貨幣<

【つの版】ウマと人類史:中世編05・唐天可汗

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  628年、東ローマは西突厥と手を組んでペルシアを屈服させましたが、同年には西突厥の統葉護可汗が殺されています。東西の突厥は唐の策略で分断され、従属部族の鉄勒が台頭するなど受難の時代となりました。 ◆唐◆ ◆唐◆ 鉄勒諸部 鉄勒とはやはりテュルクの音写ですが、阿史那氏の可汗を頂く部族連合としての「突厥」とは異なるテュルク系の諸部族を指します。唐代に編纂された史書『隋書』『北史』などによると「匈奴の苗裔」とされますから、要は勅勒

【つの版】ウマと人類史:中世編04・拓跋天子

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  西暦589年、隋の文帝楊堅は陳朝を滅ぼし、永嘉の乱以来270数年ぶりにチャイナの天下を再統一しました。突厥は建国から40年近くを経て東西に分裂しており、隋はその隙を突いて国力を高め、突厥を分断していきます。 ◆United We Stand◆ ◆Divided We Fall◆  ルビ機能が無料で使えるようになったそうですので、試してみましょう。 啓民可汗大義公主 - Wikipediaja.wikipedia.org<

【つの版】ウマと人類史:中世編03・東西突厥

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  突厥は柔然とエフタルを滅ぼし、ユーラシアの東西を統合する大帝国となりました。彼らはいわゆる「テュルク」ですが、支配下の住民が全てテュルク「民族」に変わったわけでも、顔立ちや血筋や言語が入れ替わったわけでもありません。騎馬遊牧民の人口は定住民より常に少なく、上がすげかわり共通語が増えただけで、下々はそのまま暮らしています。 ◆トゥルトゥル◆ ◆ダダダ◆ 被髪左衽 ひとまず、周書に書かれた突厥の習俗を読んでいきましょう。原文を引

【つの版】ウマと人類史:中世編02・突厥帝国

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  西暦552年、アルタイと天山の付近に突厥可汗国が独立し、西魏やエフタルと手を結んで柔然を攻撃しました。柔然の可汗は自決に追い込まれ、モンゴル高原は急速に突厥の手に落ちていきます。 ◆両面◆ ◆宿儺◆ 木汗可汗 突厥の初代可汗の土門(伊利可汗)は552年に逝去し、子の科羅が立って乙息記可汗と号しました(隋書では伊利可汗の弟で逸可汗)。彼も柔然と戦い、西魏に馬5万匹を献上しましたが、553年に逝去します。子の摂図はまだ幼かったた

【つの版】ウマと人類史:中世編01・蒼天狼祖

 ドーモ、三宅つのです。あまりに増えすぎたのでここから中世編ですが、前回の続きです。  中央アジアから拡散したフーナ/キオニタエ/フン族の勢いは、南はインド洋に到達し、西はライン川を越えてオルレアンにまで及びました。欧州ではアッティラの死後急速に崩壊したものの、中央アジアやアフガニスタンではエフタルが強大となり、ペルシア帝国を脅かしています。しかし、やがてテュルクの一派である突厥が勃興し、内陸ユーラシアを席捲するのです。 ◆狼◆ ◆祖◆ 高車興亡 エフタルの東、高車や

【つの版】ウマと人類史32・伊蘭闘乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  453年にアッティラが死ぬと、ドナウ北岸の帝国は急速に崩壊しました。しかし、東西ローマ帝国の危機が去ったわけではありません。帝国各地には蛮族が割拠し、西ローマ皇帝の支配権はイタリアにしか及びませんし、東にはサーサーン朝ペルシア帝国が栄えています。東ローマはどうにか持ちこたえたものの、西ローマ帝国の命運はもはや風前の灯火でした。 ◆三◆ ◆体◆ 東方騒乱 西ローマ帝国の終焉とその後については、「ユダヤの謎」とかでとりあげました