マガジンのカバー画像

つのpedia

645
いろいろな資料集です。ご自由に活用して下さい。
運営しているクリエイター

#倭国

【つの版】日本刀備忘録03:蕨手之刀

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  倭国/日本の建国神話には刀剣が密接に関わっています。三種の神器の一つ草薙剣はその代表ですが、古事記や日本書紀が編纂された頃、実際にどのような刀剣が用いられていたのでしょうか。 ◆剣◆ ◆心◆ 丙子椒林 日本書紀に、推古天皇が蘇我氏を褒めて「馬ならば日向の駒、大刀ならば呉の真刀」と言ったとあります。呉とはチャイナ南部で、当時の文明先進地であり、古代から刀剣の鋳造で有名です。舶来品の刀剣を珍重してそう呼んだものでしょうが、馬と刀

【つの版】日本刀備忘録02:神代宝剣

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  日本列島に最初にもたらされた刀剣は、青銅製の直剣でした。続いて鉄製の刀剣が伝来し、古墳時代後期には倭国内での製鉄や刀剣の鍛造も開始されます。しかし当時の刀は基本的に直刀で、まだ湾曲していませんでした。まずは記紀に登場する刀剣について見ていきましょう。 ◆日◆ ◆本◆ 倭韓鍛部 弥生時代から古墳時代にかけて海外から輸入された刀剣のうち、把頭に環がある刀(環首刀)を考古学上は「環頭大刀」と呼びま

【つの版】日本刀備忘録01:刀剣淵源

 ドーモ、三宅つのです。「ウマと人類史」シリーズは増えすぎたのでここらでお開きとし、武家繋がりで「日本刀」について軽く調べてみましょう。つのは何の専門家でもないため詳しく知りたい方は専門書を読んで下さい。 ◆刀◆ ◆剣◆ 刀剣淵源 狭義の日本刀が出現するのは平安時代後期ですが、日本列島にはそれ以前から刀剣が存在していました。まずは刀剣の起源まで遡りましょう。  対象を切断・切削する機能を持つ構造を「刃(は/やいば/ジン/edge)」といい、刃を有する道具を「刃物(はも

【つの版】ウマと人類史EX16:行方野馬

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  日本列島にはウマの飼育に好適な火山性草原が豊富にあり、特に東国では多くの馬牧が作られました。さらに北方の奥羽/東北地方にも、倭国と蝦夷との交易や戦争などによりウマが導入されていきます。 ◆蝦◆ ◆夷◆ 東征毛人 倭国から見て東国には、「えみし」と総称される人々が住んでいました。漢字では毛人といい、のち蝦夷の字があてられます。彼らと倭国の関係を、主に倭国側の記録から読み取ってみましょう。  四道将軍や武内宿禰、ヤマトタケルは

【つの版】ウマと人類史EX13:西海馬牧

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  古事記や日本書紀によれば、天皇家の始祖は日向国、すなわち南九州に天下り、神武天皇が一族郎党を率いてヤマトへ遷ってきたとされます。いわゆる神武東征ですが、南九州が火山性草原に富み、多くの馬牧が存在したことは確かです。推古天皇も蘇我氏を「馬ならば日向の駒」と評したほど、古代から馬飼の盛んな地だったのです。それらを見てみましょう。 ◆DRAMATIC◆ ◆JOURNEY◆ 西海馬牧 朝鮮半島から最も近い九州(西海道)には、古くから

【つの版】ウマと人類史EX11:火山草原

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  古墳時代、4世紀後半に朝鮮半島から日本列島(倭国・倭地)へ輸入されたウマは急速に根付き、各地に牧が設けられ、6世紀には逆に朝鮮半島側へウマを輸出するようになりました。倭国は急激に軍事大国となり、高句麗には敵わぬまでも百済や新羅を抑えつけるほどにはなりましたが、それは一体なぜだったのでしょうか。この本を参考に振り返ってみましょう。  妄想が先走ったところもあるものの、日本列島で多くのウマが飼育されるようになったことについて結構納得

【つの版】ウマと人類史EX10:諸国官牧

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  7世紀後半、倭国の同盟国の百済・高句麗は唐・新羅によって滅ぼされ、多くの難民が倭国に亡命しました。倭国/日本は国防のため彼らを東国などへ遷し、牧(まき/うまき)を管理させることになります。 ◆牧◆ ◆馬◆ 諸国官牧 西暦660年、百済は唐・新羅連合軍に滅ぼされます。倭国は百済の残党を支援しますが663年に白村江の戦いで敗れ、半島から撤退します。そして668年10月、唐は高句麗を攻め滅ぼしました。同年正月、中大兄皇子が7年の間

【つの版】ウマと人類史EX09:甲斐黒駒

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  4世紀後半、倭国には朝鮮半島から本格的にウマがもたらされます。ウマの飼育・繁殖・利用のノウハウも渡来人/帰化人によってもたらされ、倭国の各地に牧場が設立されました。これらについて見ていきましょう。 ◆馬◆ ◆娘◆ 天之斑駒 8世紀に編纂された『古事記』『日本書紀』によれば、スサノオが高天原に赴いた時、天斑馬/天斑駒(あめのふちこま)というウマがすでにいました。「天にいる斑毛の馬(駒=子馬)」の意です。スサノオはこれを捕まえて

【つの版】ウマと人類史EX08:倭地入馬

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  古代チャイナでは西方から伝来した二輪戦車が戦場の花形として活躍しましたが、戦国時代末期からは騎兵が取って代わります。ただ優秀な騎兵戦力を大量に動員できるモンゴル高原の騎馬遊牧民に対しては劣勢に立たされ、しばしば征服されています。それについては長々と見てきましたね。 ◆帽◆ ◆子◆ 絹馬貿易 秦の滅亡後にチャイナを再統一した漢は、北方の騎馬遊牧民の帝国・匈奴に敗れ、服属することになります。漢は毎年食糧や絹などを匈奴へ貢納し、長

【つの版】度量衡比較・貨幣13

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  倭国・日本は遣隋使・遣唐使を派遣してチャイナの制度を受け入れ、文明国の仲間入りを果たしました。唐の開元通宝を真似て独自の銭を鋳造してもいます。それまでにも古来交易はあり、様々な物品が貨幣として用いられていたはずです。古代倭国の貨幣について見てみましょう。 ◆鉄◆ ◆雄◆ 鉄鋌用銭 倭地・倭国では、古くは物々交換が自然に行われていたはずです。しかし弥生時代・古墳時代の遺跡からは、チャイナの金属貨幣である半両銭や五銖銭、王

【つの版】大秦への旅09・太秦猶太

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 秦氏や聖徳太子とキリスト教を結びつけて論じた記述は、16世紀のイエズス会の報告にも、江戸時代のオランダ人の報告にもありません。ましてユダヤ人やイスラエルと結びつけた話もありません。こうした話は19世紀になってようやく出現したのです。(コピペ) ◆英◆ ◆国◆ 景碑出土845年の「会昌の廃仏」で大秦寺が破壊されてから800年近く後、明の天啓3年(1623年)になって「大秦景教流行中国碑」が地中から発掘されました。この頃チャイナに来

【つの版】徐福伝説09・徐巿過此

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 徐福の登場から1500年余りの歳月が流れ、日本に徐福が渡来したという伝説は、チャイナでも日本でも人口に膾炙するようになりました。富士山を蓬萊とする説、秦氏を徐福らの子孫とする説も現れ、紀州熊野に徐福の祠までも出現します。政治的意図もあってのことでしょうが、徐福伝説はさらに独り歩きを始め、日本全国に徐福の渡来地が現れることになりました。 ◆I wanna know◆ ◆the truth◆ 出港入海まず、チャイナ側から徐福伝説の地

【つの版】徐福伝説06・海漫漫

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 徐福らの行方については、チャイナでも議論がありました。出発したが風波に遭って戻って来たとも、平原廣澤を得て王になり戻って来なかったとも、会稽の東の彼方の亶洲に住み着いたとも、蓬莱にたどり着いて仙人になり昇天したとも言われます。いったい彼らはどこに行ったのでしょうか。 ◆石◆ ◆海◆ 僊居蓬萊秦漢魏晋には多くの仙人・道家に関する文献が著され、太平道や天師道(五斗米道)などから発展した「道教」の経典となって行きました。そこにも徐福(

【つの版】日本建国22・系譜年代

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。今回が一応最終回です。 記紀に記された日本建国までの神話が、いかなる意図のもとに編纂されたかを推測して来ました。続いて天皇や豪族の系譜を確認し、世代数や年代を推定します。神話や歴史と同じく、系譜も年代も捏造改変は容易に可能です。むしろそうやって箔をつけ、過去の事実を歪めて現代に都合よく捏造する事こそ、古今東西で系譜や年代、史書に求められる大事な機能です。そうしたことを理解した上で、記述の背景を読み解いていきましょう。 ◆終◆ ◆終◆