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つのpedia

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2022年1月の記事一覧

【つの版】ウマと人類史:中世後期編10・韃靼瓦剌

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1402年、明朝の燕王・朱棣は、甥である建文帝を倒して帝位を簒奪し、改元して永楽としました。これが永楽帝です。彼は帝都を応天府(南京)から自らの拠点である北平(北京)へ遷し、大都に都を置いたクビライを真似るように帝国を拡大していきます。 ◆瓦◆ ◆剌◆ 四部瓦剌  この頃、モンゴル高原はどうなっていたのでしょうか。1388年にクビライ家のカアン/ハーンであるトグス・テムルがアリクブケ家のイェスデルに殺され、イェスデルはモン

【つの版】度量衡比較・重さ

 ドーモ、三宅つのです。超久しぶりに度量衡比較をやります。  前回は度量衡の量、すなわち容量・体積についてしましたので、今回は衡、すなわち重量についてします。重量が何かとかいう定義は置くとして、重量を計測する歴史的単位について比較します。つのは特になんの専門家でもないため、詳しいことは専門家にお聞き下さい。 ▼衡 衡という字は、もとは牛の角につける横木、すなわち「くびき(頸木)」のことです。横木の左右の釣り合いが取れまっすぐなのを「均衡」「平衡」といい、釣り合いをはかるた

【つの版】ウマと人類史:中世後期編09・靖難之変

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  14世紀末、ティムールが再びの西方遠征に出発した頃、チャイナの明朝では国を二分する内戦「靖難の変」が起きていました。建国者の洪武帝・朱元璋が崩御した後、帝位を巡って争いが勃発したのです。 ◆南北◆ ◆戦争◆ 燕王挙兵 朱元璋には26人の男子がおり、長男の標が皇太子となっていましたが、彼は1392年に父に先立って逝去しました。嘆き悲しんだ朱元璋は標の次男允炆を皇太孫とします。他の子らや宗室は藩王として全国各地に封建され、独自の

【つの版】ウマと人類史:中世後期編08・雷帝決戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1381年から1396年にかけて、ティムールはホラーサーンとイラン高原、アルメニア高原を征服し、キプチャク草原と天山山脈まで遠征して服属させ、中央ユーラシアの広大な領域に覇を唱えました。次の目標はインドです。 ◆Saahore◆ ◆Baahubali◆ 印度遠征

【つの版】ウマと人類史:中世後期編07・帖木西征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1370年に中央アジアの西チャガタイ・ウルスの実権を握り、皇女を娶ってチンギス家の娘婿(キュレゲン)となったティムールは、東のモグーリスタンや西のホラズムなど周辺諸国と戦います。さらにトクタミシュを支援してジョチ・ウルスを再統一させ、自らはイラン高原への遠征を開始します。 ◆勇者◆ ◆魔王◆ 南渡阿母

【つの版】ウマと人類史:中世後期編06・蒙古駙馬

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  大元が大明の攻撃を受けて北へ逃れた頃、中央アジア西部にはティムールが出現します。彼はイランや西アジア、キプチャク草原へと大遠征を行い、一代で広大な帝国を建設することになります。 ◆大◆ ◆事◆ 帖木出自

【つの版】ウマと人類史:中世後期編05・大元北走

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1368年8月、大元皇帝トゴン・テムルは大都を放棄し、皇太子アユルシリダラ、皇后奇氏とともに上都へ逃亡しました。江南と漢地の大部分は応天府(南京)を都とする大明皇帝・朱元璋に服属し、帝国は莫大な財源であった征服地を失います。しかし、モンゴル帝国はまだ滅んでいません。 ◆中◆ ◆華◆ 大元北走 大都を占領した大明の将軍・徐達でしたが、長安の李思斉を攻撃していたココ・テムルが太原から攻め寄せ、一時大都を奪還します。徐達はいったん

【つの版】ウマと人類史:中世後期編04・紅巾之乱

 ドーモ、あけましておめでとうございます。三宅つのです。前回の続きです。  14世紀前半、モンゴル帝国の諸国はジョチ・ウルスを除いて動揺していました。帝国の盟主たる大元ウルスでは帝位と実権を巡る争いが収まりつつありましたが、最大の財源であるチャイナ中南部で大反乱が勃発します。 ◆紅◆ ◆巾◆ 脱脱丞相  1333年に14歳で帝位に擁立されたトゴン・テムルは、1340年に権臣バヤンと皇太后ブダシリを排除し、バヤンの甥でメルキト部出身のトクトが政権を握りました。彼の父マジ