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つのpedia

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2021年2月の記事一覧

【つの版】大秦への旅02・安息條支

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 大宛(フェルガナ)、安息(上古音:an sjək,パルティア)、烏弋山離(カンダハール)の位置関係はわかりました。では、條支(上古音:dog kieg)はどこにあるのでしょうか。 ◆條◆ ◆支◆ 安息西界まず、『史記』大宛列伝にはこうあります。 安息国の西はすなわち條枝で、北には奄蔡(アオルソイ、カスピ海北方の遊牧民)、黎軒がある。 黎軒については後で考えるとして、『漢書』にはこうあります。 條支は烏弋山離の西に接し、10

【つの版】大秦への旅01・烏弋山離

ドーモ、三宅つのです。邪馬台国・倭国・記紀神話・徐福伝説をざっと見てきましたので、今回から秦繋がりで大秦を目指します。 序大秦とは何か? それはチャイナの史書に登場する、西の彼方の謎の大国です。描写からして古代ローマ帝国のことと思われるのですが、なぜチャイナ(秦)の遥か西にあるローマが「大秦」と呼ばれるのでしょうか。唐代には景教(ネストリウス派キリスト教)が西方からチャイナに伝来し、長安には大秦寺や景教碑が建立されましたし、日本の秦氏や徐福、ユダヤ人とも関係があるとも言われ

【つの版】徐福伝説13・忍者秦術

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。徐福伝説の最終回です。 徐福伝説のバリエーションとして、「徐福が忍者の祖である」という説があります。平安時代をカラテで支配した半神的存在の「ニンジャ」ではなく、いわゆる「忍びの者」の起源譚です。つのも忍者はすきですので、どこでどのようにそう伝えられているのか、最後に調べてみましょう。 ◆忍◆ ◆殺◆ 忍者淵源「忍者(にんじゃ)」という語が定着したのは、昭和30年代以後に小説や映画作品、漫画などで用いられて普及したためです。それ以前

【つの版】徐福伝説12・富士登仙

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 徐福伝説の最終目的地は、日本を代表する霊峰・富士山です。ここが蓬莱山であり、不死の山だという伝説はよく知られており、10世紀のチャイナの仏教辞典『義楚六帖』にも日本僧・寛輔の伝える話として収録されています。これは熊野の徐福伝説よりも古く、また徐福や童男童女の子孫が秦氏であるという話も同時に登場しています。改めて検証していきましょう。 ◆金剛◆ ◆阿吽◆ 噴火崇嶽日本最高峰にして独立峰の富士山は、その美しさと噴火の激しさにより古く

【つの版】徐福伝説11・熊野権現

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 日本列島各地に徐福伝説がありますが、最も古くからあるのは富士山、次いで紀州熊野です。熊野には徐福の祠があることが海外にも認知されており、徐福は熊野権現になったともされますから、全国の熊野権現の分社で徐福が祀られているわけです。熊野とはどのような地なのでしょうか。 ◆熊◆ ◆熊◆ 熊野熊野(くまの)とは、現在の和歌山県と三重県に属する紀伊半島南部の地域です。おおよそ和歌山県田辺市(口熊野)から東、三重県尾鷲市から南西にあたりますが

【つの版】徐福伝説10・東海秦氏

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 徐福が山東半島から出港したとして、日本へ行くならば朝鮮半島西岸を南下し、済州島を経て九州に上陸するのが基本です。しかし対馬や壱岐、五島列島や平戸、唐津や博多に徐福伝説はなく、有明海を北上した佐賀平野や薩摩半島西岸、宮崎県などに九州の徐福伝説があります。どうも熊野権現と習合して後付で語られ出した気配がありますが、さらに東へ進みましょう。 ◆覇穹◆ ◆封神◆ 祝島仙果関門海峡を抜けたのか、豊前から出港したのか、あるいは宮崎から豊予海

【ニンジャスレイヤー222】徐福伝説とニンジャ

ドーモ、三宅つのです。今日はニンジャの日であり、つのは最近徐福について調べています。なので今回は徐福とニンジャについて調べてみました。 御存知の通り、徐福は日本におけるニンジャの祖と言われています。古代ニンジャ文明は紀元前から存在したことが明らかになっていますが、徐福や始皇帝がいた紀元前3世紀には、既にニンジャ大戦が終わってから千年以上が経過していました。彼がニンジャの祖というのは大げさな話です。しかし、少なくとも彼自身がニンジャであったことは考えられます。 今日の我々が

【つの版】徐福伝説09・徐巿過此

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 徐福の登場から1500年余りの歳月が流れ、日本に徐福が渡来したという伝説は、チャイナでも日本でも人口に膾炙するようになりました。富士山を蓬萊とする説、秦氏を徐福らの子孫とする説も現れ、紀州熊野に徐福の祠までも出現します。政治的意図もあってのことでしょうが、徐福伝説はさらに独り歩きを始め、日本全国に徐福の渡来地が現れることになりました。 ◆I wanna know◆ ◆the truth◆ 出港入海まず、チャイナ側から徐福伝説の地

【つの版】徐福伝説08・熊野徐祠

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 徐福の登場から千年余り後、チャイナに渡った日本僧・寛輔によって、初めて「徐福が日本に渡来した」「蓬萊とは富士山である」「徐福らの子孫は秦氏である」という伝説が一揃いで出現しました。これが寛輔の口から出任せなのか、伝説を繋ぎ合わせたのかはわかりませんが、この伝説をもとにしてチャイナや日本各地で徐福伝説が新たに生まれて来たようです。 ◆柔◆ ◆濡◆ 鮫大魚平安後期、1120年代に成立した説話集『今昔物語集』巻10第1話に「秦始皇在咸

【つの版】徐福伝説07・富嶽蓬萊

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 インデックスを作りました。 徐福が琅邪で始皇帝に会ってから千年余の歳月が流れました。彼の名は史書や儒教、士大夫の間では「始皇帝を惑わし人民を苦しめた詐欺師」として、道教や民間信仰では「蓬莱山に辿り着き、不死の薬を飲んで昇天した仙人」として伝わっていました。その話は東海の彼方、朝鮮半島諸国や倭国・日本にも届いたはずですが、史書には徐福がこれらの地に到達したという記録がありません。各地に伝わる徐福伝説はどこから始まったのでしょうか。

【つの版】徐福伝説・インデックス

ドーモ、三宅つのです。新たにインデックスを作りました。 ◆つの版:日本古代史◆ 第一部:邪馬台国への旅 第二部:倭の五王への道 第三部:倭国から日本へ 第四部:日本建国 つのの記事はつのに属しますが、ミームが広がるのは歓迎しますので、紹介したり感想を書いたりする程度はご自由にして下さい。You Tubeとか書籍とかでつのの記事に基づく仮説を披露しても構いませんが、その場合は出典を明記して下さい。つのも参考文献一覧を作りました。 ◆徐福入海編 徐福の実態を読み解くに

【つの版】徐福伝説06・海漫漫

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 徐福らの行方については、チャイナでも議論がありました。出発したが風波に遭って戻って来たとも、平原廣澤を得て王になり戻って来なかったとも、会稽の東の彼方の亶洲に住み着いたとも、蓬莱にたどり着いて仙人になり昇天したとも言われます。いったい彼らはどこに行ったのでしょうか。 ◆石◆ ◆海◆ 僊居蓬萊秦漢魏晋には多くの仙人・道家に関する文献が著され、太平道や天師道(五斗米道)などから発展した「道教」の経典となって行きました。そこにも徐福(

【つの版】徐福伝説05・夷洲亶洲

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 徐福ら斉人、盧生ら燕人は、秦の圧政を逃れるため東海の彼方の新天地を目指したのかも知れません。しかし遼東半島や朝鮮半島には秦の軍隊が駐屯しており、通報されれば殺されてしまいます。秦の手が及ばないもっと遠くを目指したとすれば、どうでしょうか。 ◆GIO◆ ◆GIO◆ 漢徳変遷秦が滅び漢が興った後も、燕斉の方士たちは盛んに活動し、天子を惑わしています。高祖劉邦は王族や貴族ではなく庶民から成り上がったので、天子・皇帝の権威に箔をつけるた

【つの版】徐福伝説04・燕斉海東

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 徐氏は山東省東南部の臨沂市郯城県を発祥地とし、青島市黄島区にあたる琅邪は天然の良港で斉・越・楚の争奪地でした。田斉が秦に滅ぼされたのち、徐福はこの琅邪で始皇帝に謁見し、船を作って東海へ出発したとされています。彼はどこへ向かったのでしょうか。また、盧生ら燕の方士たちもどこへ逃亡したのでしょうか。 ◆DU◆ ◆4U◆ 東海の彼方琅邪は山東半島の南にありますが、渤海湾は山東半島の北側です。始皇帝は渤海湾に突き出た之罘山の沖で大きな魚を