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2020年12月の記事一覧

【つの版】倭国から日本へ06・安閑と宣化

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 534年甲寅、継体天皇こと倭国の大王ヲホドが崩御しました。近江生まれで越前から招かれた遠縁の王族でしたが、重臣たちの輔佐もあって国内をまとめ、親百済外交によって梁から先進文化をもたらして、王権を強めました。しかし百済に肩入れし過ぎて任那を弱体化させ、新羅や大加羅の台頭を招き磐井の乱が勃発するなど、晩年は多難でした。後継者たちは大変です。 ◆混沌◆ ◆創世◆ 安閑天皇継体が崩御すると、長子で皇太子の勾大兄(まがりのおほえ)皇子が即

【つの版】倭国から日本へ05・継体崩御

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 継体天皇は親百済外交で百済を復興させ、倭国の王権を強めましたが、代償として任那諸国は弱体化し、新羅や大加羅の侵略を受けました。倭国内にも不満が鬱積し、新羅と結んだ磐井の乱が起きます。このような状況が解決できないまま、継体は崩御の時を迎えました。 当時のチャイナや半島諸国からすれば「倭王が死んだ」「倭王が薨じた」となるでしょうが(卑彌呼も倭の五王も「死」で済まされています)、日本書紀では歴代の倭国王も遡って「日本国の天皇」として扱われ

【つの版】倭国から日本へ04・任那問題

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 527年から528年にかけて、北部九州では新羅と結託した地方豪族による反乱「磐井の乱」が起きました。これは新羅が倭国の勢力圏である任那諸国を侵略し、倭国が出兵しようとしたのを、新羅が食い止めるために起こさせたものです。磐井の乱を鎮圧した倭国は、ようやく任那へ出兵します。 ◆日◆ ◆本◆ 倭国、新羅、百済、任那と加羅(伽倻、伽耶)の関係はまことにややこしいのですが、振り返って整理しましょう。 加羅の歴史もともと慶尚道には、前漢の

【つの版】倭国から日本へ03・磐井の乱

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 507年に河内楠葉宮で即位した継体天皇(ヲホド大王)は、511年に山背筒城宮、518年に山背乙訓宮、526年に大和磐余玉穂宮へ遷りました。この20年間に、チャイナや半島はどうなっていたでしょうか。 ◆RUN◆ ◆RUN◆ 北魏の混乱515年に北魏の宣武帝が崩御して6歳の皇太子元詡(孝明帝)が即位すると、専権を振るっていた外戚の高肇(高句麗人)は誅殺され、皇太后の胡氏が実権を握ります。彼女は安定郡(甘粛省慶陽市)出身の漢人貴族の娘

【つの版】倭国から日本へ・インデックス

ドーモ、三宅つのです。新たにインデックスを作りました。「邪馬台国への旅」「倭の五王への道」に続いて、第三部「倭国から日本へ」となります。 つのの記事はつのに属しますが、ミームが広がるのは歓迎しますので、紹介したり感想を書いたりする程度はご自由にして下さい。You Tubeとか書籍とかでつのの記事に基づく仮説を披露しても構いませんが、その場合は出典を明記して下さい。つのも参考文献一覧を作りました。 ◆継体天皇編 475年には百済が高句麗に敗れ、漢城(ソウル)から熊津(公州

【つの版】倭国から日本へ02・継体と百済

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 西暦507年丁亥、倭国の大王に越前出身の傍系王族である男大迹(ヲホド)王、すなわち継体天皇が即位しました。彼は現在まで続く皇室の直系先祖であり、雄略天皇亡き後混乱していた倭国を受け継ぎました。その治世はどのようなものだったのでしょうか。『日本書紀』継体紀を読んでいきます。 ◆王◆ ◆朝◆ 百済人の返還 日本書紀巻第十七 男大迹天皇 繼體天皇 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_17.ht

【つの版】倭国から日本へ01・継体即位

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 479年8月に雄略天皇(治天下ワカタケル大王、倭王武)が崩御した後、倭国ではしばらく短命・傍系の大王が続き、国は乱れたようです。この頃の大陸や半島はどうなっていたでしょうか。6世紀初頭までを見てみます。 ◆携◆ ◆帯◆ 北魏と梁北魏では490年に馮太后が亡くなり、高祖・孝文帝の親政が始まりました。彼は太后の中央集権・漢化路線を引き継ぎ、493年に平城(山西省大同市)から洛陽へ遷都します。また国姓を拓跋から「元」に改め、鮮卑・匈奴

【つの版】日本古代史・参考文献

ドーモ、三宅つのです。つのが日本古代史関係の記事を書く時に参考にしている文献集です。 つのは全くのド素人で、先行研究の上澄みを掬って浅瀬でチャプチャプしているだけです。インターネット上の記事や歴史読み物的な新書・文庫本などをつのなりに読み、図書館とかで調べて考えてはいますが、つのの書いていることを鵜呑みにはせず、あなたはあなたで調べて考えて下さい。 なお、つのは「面白いからこの方がいい」的な考え方をあまりとりません。やりたくばパルプ小説やマンガ、ゲーム、アニメなどフィクシ

【つの版】倭の五王への道21・大悪天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 倭の五王編の締めくくりとして、『日本書紀』雄略紀をざっくり見てみましょう。安康天皇を弑した眉輪王らを滅ぼした後、大泊瀬皇子は泊瀬朝倉宮で即位しました。年代記に空白はありませんが、最初からやたら殺伐で陰惨としており、編纂者が雄略や天皇になんらかの悪意を持っていたのではと疑わしくなるレベルです。皇国史観ではこのへんどうしてるのでしょうか。 ◆大◆ ◆悪◆ 大悪天皇日本書紀巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇 http://www.se

【つの版】倭の五王への道20・倭王武

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 472年に百済は北魏へ使者を送り、対高句麗戦争を呼びかけますが、怒った高句麗は475年に百済へ攻め込みます。首都漢城(ソウル)は陥落し、王は殺され、百済はここに滅びました。その時、倭国はどうしたのでしょうか。 ◆将◆ ◆軍◆ 百済復興まず『三国史記』を見てみましょう。百済本紀は続いています。 近蓋婁聞之、謂子文周曰、「予愚而不明、信用姦人之言、以至於此。民殘而兵弱、雖有危事、誰肯爲我力戰。吾當死於社稷、汝在此倶死無益也、盍避難

【つの版】倭の五王への道19・興と武

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 讚(履中天皇)、珍(反正天皇)に続き倭国王となった濟(允恭天皇)は、劉宋から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」の称号を獲得し、臣下の23人にも将軍号や郡太守号などを与えられました。だいぶ前進しましたが、都督号に百済は含まれず、官位も百済王や高句麗王より下で、対高句麗同盟の盟主としてはいまいちです。劉宋も北魏に押されてジリ貧ですし、どうしたものでしょうか。 ◆武◆ ◆士◆ 北魏と劉宋まず

【つの版】倭の五王への道18・倭濟

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 倭の五王の第二、珍は劉宋から安東将軍・倭国王の称号を受け、倭隋ら13人の将軍号も認められました。しかし「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」という大仰な称号のすべてには承認を得られず、対高句麗同盟の盟主としては百済王にも劣る官位でしかありません。倭国王のさらなる要求が行われます。 ◆濟ber◆ ◆punk◆ 倭國王濟珍に続いて倭国王となったのは濟(済)であると『宋書』は伝えます。 [元嘉

【つの版】倭の五王への道17・讚と珍

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 いろいろすり合わせてみた結果、百済から七支刀を受け取り韓地へ出兵した倭王は記紀で言う仁徳天皇(大鷦鷯尊)にあたり、倭の五王の最初である倭讚はその子の履中天皇(去来穂別尊)らしいことが朧げに見えて来ました。今回は倭讚と、その弟の倭国王珍について見てみます。 ◆王◆ ◆珍◆ 倭王の姓名420年頃から437年頃には、チャイナの史書で「倭讚」と呼ばれる倭王がいたようです。高句麗王が高姓、百済王が餘(余、夫余)姓ですから、倭王にも漢風の姓

【つの版】倭の五王への道16・仁徳天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。 いよいよ倭の五王が現れました。記紀に記された天皇、古墳の推定被葬者とのすり合わせが行われていますが、完全に断定するのは不可能です。記紀の年代は明らかに改編されていて史実と程遠く、おぼろげに当時の状況が推定できるに過ぎません。前回は『日本書紀』で応神紀をざっと見ましたから、今回は仁徳紀を見てみましょう。 ◆井◆ ◆上◆ 日本書紀巻第十一 大鷦鷯天皇 仁德天皇 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/sho