必需品としての希望的観測について
私の名前は"綾波レイ"ではないが、『こういう時どんな顔をすればいいかわからないの』と言いたくなる場面は結構日常生活に存在する。もちろん、『笑えばいいと思うよ』と返してくれる碇シンジくんはいない。なんとも世知辛い世の中である。
歳をとっていくということは、そういう『どんな顔をすればいいか分からない』場面の連続で、私たちはそれらにエンカウントして、慣れて、大人になっていくのだろうと思うことがある。
例えば冠婚葬祭。私はいまだに正式なマナーが良くわかっていない。友人が結婚するとなると、何となくネットで聞きかじった知識で御祝儀を袱紗に包み、7センチヒールを履き、肩が露出しないように気を配りながら訳知り顔で佇んでいる。列席している友人も『私もよくわかんないんだけど』『なんか雑誌に書いてあった』と口を揃える。これに限らないが、大人の世界の慣習というものは通過儀礼的に皆がトライして、何となく許容されることによって築かれてきたものなのだろうか。
それでもやはり、誰かが亡くなるのは慣れない。いや、慣れてはいけないように思う。身内ではない、公的な付き合いで年に一度会うか会わないかの間柄の方であっても、やはりどこか胸がぽかんと空洞になったような心地がする。
話は変わるが、最近、パラレルワールドのことをよく考えている。私はこれまで、何度選択をしてきただろう。進学や就職といった人生に関わるもの、友人と行ったレストランで選んだメニュー、天気が悪いからキャンセルした美容院。もし、それら全て異なった選択をしていたら、私は今どこで何をしているんだろう、と考えると途方もない。どこかで選択を誤っている気がしてならないし、その私の選択は他人に対してなんらかの悪影響を及ぼしているんじゃないか、という思いに苛まれるのだ。
話を戻す。そんなわけで、これまでに私がとった行動のどれかが彼の人生を狂わせてしまったかもしれない、と怖くなって、同期にくどくどと連絡をしていた。そんなことがあった翌日に、私が休みを謳歌していていいのだろうか。そう問うたのだ。「いいんじゃない?楽しんでおいでよ」と返信が来た。それを読んで、ああ、私は赦されたかったんだ、と感じた。別にこの件に関して私が負い目を感じる必要は無いのだろうし、私には私の生活がある。平穏無事に生きていくことを誰かに肯定して欲しかったのかもしれない。私が過去に取った些細な行動が世の中や他人の人生を変えるなんて、とんだ世迷い言だときっぱり切り捨てて欲しかったのだ。そうしてきっと、そう言い放ってくれる人物は誰でもよかった。
R.I.P.
私のコースデビュー、是非ご指導いただきたかったです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?