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忘れられないハムサンドの話

 あれは確か、ちょうど今日のようにじっとしているだけで蒸し焼きにされるような心地がする日のこと。『マチネの終わりに』の一節を借用すれば、「後に気象庁が三〇年に一度の異常気象と認定したほどの猛暑」の2010年の夏のことだった。

 地方在住の受験生だった私は、なけなしの小遣いを手に、精一杯見栄を張って購入した3,000円ほどの一張羅のワンピースを着て、渋谷から青山にかけての道を歩いていた。今なら「宮益坂を上って」と言われればピンとくるが、土地勘もなく、まだスマートフォンなど持ち合わせていなかったので、心の中ではさながらショッピングセンターで親を見失った幼子のように泣き叫んでいた。最寄り駅と示されていた表参道駅が途方もなく大人びた街に思えて、多少耳慣れた渋谷駅で降りたことを後悔してもしきれないくらいには、道が分からなかったのだ。道すがらずっと握りしめていた、コピー用紙にプリントアウトして持参した地図が汗でふやけ始めても、目的の大学には一向にたどり着く気配はなかった。
 その日は、第一志望群の大学のオープンキャンパスに参加し、その足で大ファンのアイドルのライブへ行くスケジューリングだった。背伸びしたかった私は、一緒に上京していた両親に「夜まで単独行動する」と言い張り、一万円ほどの小遣いを受け取っていた。

 「青山学院大学はどこですか」
 横を通りかかった工事現場の人に尋ねた。その人は、戸惑ったように私の進行方向をまっすぐ指さして、不思議そうな顔でこちらを見た。当然だ。東京の人からすれば、迷うはずがない道だったのだから。結果として私は正しい針路を取っていたのだが、自分が地図の通りに歩いているのかもわからなくて、本気で泣きそうだった。どこをどう歩いたのかはよく思い出せないが、とにかく暑くて、のどが渇いて、休憩しないともう死んでしまう、砂漠で遭難したらこんな気持ちになるのか、とめそめそしながら彷徨っていた時に、一軒の店が目に入った。

 イートインが数テーブルしかなかったその店――確か、ショコラトリーかパティスリーだった――に、すんなりと入店できたのは奇跡だったと思う。朧気に記憶している内装は小洒落ていて、キラキラした女子たちがスイーツを挟んで向かい合い、話に花を咲かせていたのかもしれないが、よく思い出せない。とにかくおなかが減った、のどが渇いた、その一心で私が指差したのは、いわゆるハムサンドの写真だった。……きっと、もっとハイカラなカタカナの名前がついていたに違いないけれど。
 ワンプレートに盛られたそれがサーブされるのにそう時間はかからなかった。厚めにカットされたバンズは軽くトーストされていて、ほんのり温かかった。挟みこまれたハムはひんやりとしていて、その温度差が面白い。すきっ腹には少し物足りない量だったので、さっさと食べ終えて退店した。落ち着いて周りを見渡してみると、地方から出てきた垢抜けない高校生が一人で滞在していることに急に恥じらいを覚えたのだ。

 そのあと、目的地はすぐに見つかった。模擬授業を受け、大学のパンフレットを受け取り、憧れの東京でのキャンパスライフに胸を膨らませながら、ミクシィのコミュニティで募集した同行者のお姉さんと合流してライブ会場へ向かった。「何か食べてきた?」と聞かれ、とっさに上手く言葉が出ず、ハムサンドを食べてからそう時間は経っていなかったのにパスタをごちそうになってから会場へ向かったことを覚えている。まだ高校生だった私を最後まで気遣ってくださって、本当に親切な方だった。ライブ終了後、原宿駅で合流した母は、「迷わなかった?」と尋ねた。「もちろん」と強がった覚えがあるが、きっと全部伝わっていただろうと思う。

 あれから10年経った。私は青学ではないが東京の大学に進学し、卒業して、東京で就職した。この10年の間に原宿~表参道に行く機会は幾度とあったし、あの店を探してみようと考えたこともあったが、結局はっきりと場所が分からずに諦めてしまった。淘汰が早い街だから、すでに店が無くなっているかもしれない。

 この半年弱、あまり積極的に外出することもなく、「どこかに旅行に行きたい」「美味しいもの食べたい」と譫言のように繰り返し、ライブ配信を観たりして、無為に日々を過ごしている気がする。10年前の私が聞いたら腰を抜かすだろうが、ずっと追いかけてきたアイドルはつい最近事務所を退所して第二の人生を歩み始めてしまったし、いろいろな要因が重なった結果、図らずも7歳も年下の推し(とてもかわいい)が出来た。当時憧れていた東京での暮らしとはかけ離れているが、今のところ衣食住は保障されており、仕事も安定していて、別に不幸せなわけでもなく、なにかに不自由しているわけでもない。ただなんとなく所在無い感情を抱いているのだが、きっとそう感じているのは私だけでは無いのだろうと思う。

 エアコンのタイマーを19時過ぎにセットし、集合玄関を抜け、今日も蒸し暑いなと空を見上げる。こんな夏の日にどうしようもなく思い出すのは、友人と交わしたビールののどごしでもなく、ラグジュアリーホテルのラウンジで頂いたパフェでもなく、炎天下並んだ”映え”るかき氷でもなく、たまたまたどり着いた店で、たまたま注文したハムサンドなのだから不思議なものだ。
 先ほどはなんともそれらしい描写をしたが、実のところその味はよく覚えていない。もしかしたら何の変哲もない、その辺で手に入るサンドイッチと同等の代物だったかもしれない。名前は「パニーニ」だったかもしれないし、「バインミー」だったかもしれない。初めて一人で歩いた東京の街で、初めて一人で食べたハムサンドの何物にも代えがたい滋味深き味わいは、私の中にしっかりと刻み込まれている。

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