狩人の食卓
『粉河寺縁起』(国宝)は、いわゆる縁起絵巻の代表的な作品である。粉河寺(こかわでら)の由来、それが祭る千手観音の功徳と、とても分かりやすく、強く説得力のある構成となっている。前半の寺建立において、その主人公は深い山に住む狩人、そのかれの発心により観音像が奇跡的に現れた。狩人の狩り物は鹿、木の陰に隠れて弓を力いっぱいに引いた姿、そして危険を察知せずにのんびりと草を食べ続ける鹿の様子は、対照的で楽しい。
一方では、絵巻の半分は絵である。物語を伝える文字の叙述(詞書)に対して、絵はそれを単純に再現するに留まらず、ときには自由に展開し、その表現は豊かだ。粉河の狩人の場合、絵巻はかれの日常の暮らし、とりわけ家族で囲む食卓と、それを支える食料の保存、準備、そして料理の様子にスポットライトを当てた。その画面を眺めてみよう。
胡坐を掻いて板敷きの部屋の中心に構えたのは、一家の主である狩人。かれの前にはまな板を兼ねる食卓が設えられ、その上に食べ物がぎっしりと並ぶ。狩人が左手であやつるのはお箸ではないことには注目すべきだろう。男とその妻が視線を集めたのは、幼い長男か。串差しの食べ物を大満足な顔でおいしそうに食べている。大人二人の食べ物は椀の中に盛りつけられ、中味は汁物だろうか。妻の懐に抱かれて赤子は、母乳を無心に貪る。部屋の半分を占める莚は、母子への気遣いにほかならない。
部屋と続きになる庭の中の様子もしっかりと描き込まれている。そこにはさしずめ賑やかな台所風景だ。
台所の主役は、いまは僅かにしか残っていない竈だ。鍋が置かれ、しかもしっかりと蓋をし、焚いているのはご飯だろうか、あるいはなにかの煮物だろうか。竈の前に火を受けて炙られているのは、串差しの食べ物。食材は加工されて、すぐにはその正体が分からない。これらに対して、庭の半分を占めたのは、鹿肉の干しもの。綺麗な形に整えられ、整然と莚の上に並べられる。肉加工の大事なプロセスであり、保存や料理に備えていることは言うまでもない。
さらに画面が広がり、庭の向こうに設けられた柵には、鹿の皮が枠に慎重に広げられた形で干される。食生活から離れ、あるいは物々交換のために加工されているのではなかろうか。そのそばで飼い犬まで恩恵をうけて、鹿の骨を齧っている。
以上のような食料の準備の仕方、食事の様子などは、言ってみれば物語の本筋からはみ出し、詞書では語られず、絵画にする必然性もないものである。ただこの一連の描写が施されたおかげで、狩人の生活は生き生きとしたものとなり、読者も物語の世界に大きく近づけることができた。そして、鹿の肉を干すという詳細はたしかに詞書において伝えられていないが、すこし視線を広げてみれば、『今昔物語集』において、わずかだが、似たような風景を確かめることができる。
物語に語られたのは、章家という名前の地方の官吏(守)である。そのかれは鹿を狩る狩場を作らせ、それがうまく機動し、思う通りに多数の鹿を仕留めた。やがて鹿の皮を剥ぎ取り、鹿の肉を国府の館の庭に所せましと並べさせた。もともと『今昔物語集』においては、この行動自体は仏の教えに背く殺生として捉え、章家本人の懺悔をもって一話を終わらせたのだった。(巻第二十九「主殿頭源章家造罪語第卅七」)
話を『粉河寺縁起』に戻そう。上記の皮や肉の手入れをしている様子は、場所を室内に移してさらに一度繰り返した。そして千手観音への感謝という段になると、無数の信者が我先にと寺に持ち込んだのは、ほかでもなくさまざまな食べ物だった。その膨大な分量を示すには目録を読み上げる役目が設けられ、その上質さを誇示するには大きな魚がまるごとの姿を見せるほどだった。
『粉河寺縁起』が描いた食卓は、それが平凡な狩人だったことに異彩を放つ。普通の暮らしをする庶民の、裕福とまでいかないが、無理のない平穏な日常が繰り広げられた。男は家の中心に構え、子供は複数にいて、食は贅沢しないがもの足りている。饒舌な画面はいろいろな意味で今日のわたしたちに語りかけている。絵巻の成立は十二世紀後半だと推定される。平安時代の一つの貴重な風景として覚えておきたい。
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