脳の未成熟な人たちがとるコミュニケーションの手段が、他の動物社会でありがちなマウントの取り合いになるのは仕方のないことかもしれませんね。
いよいよ東京オリンピックが開催されましたね。私の関心事は大会自体よりも、グローバル批判をしていたあの人たちが、どういう態度に出るかというものでしたが、まあ予想通り、手のひら返しの開催歓迎でしたね。しかも、体面を保つために苦しい言い訳に終始したりして、みっともないとしか言いようがありませんでした。コロナ対策について、日本には数多くの外国の人が住んでいるのに「日本人は大丈夫だから対策するな!」と、強弁していた人が、実はインターナショナルだ、排外主義じゃない、なんて言っても手遅れですよね。手のひら返しに、後出しジャンケン、卑怯な人はどこまでも卑怯ということでしょう。まあ、別の意味で自分がインターナショナルであると認めたということなら話はわかりますが。なにせそっち系の全体主義国家というものは、自国の優位性を示すために、スポーツに力を入れてましたから。
どっちにしろ、自分の都合優先の人たちが、国際協調なんて無理な話ですよね。そもそも今の国際関係維持の取り組みに反しているわけですから。あの人たちがずっと言ってきて全然達成できていない「世論を変える」というのは、つまり、ひとつの考え・価値観でみんなを染め上げるということです。今、その手法をとって思想統制に精を出している国が、他の国々とどういう関係にあるかを見れば、一目瞭然だと思います。
昔のように、あの国のように、政権側が積極的に強権を振るえば、大多数を従わせることは可能でしょうが、そんな力がなかったら、同じ考え・価値観の人たちで集まって集団を形成するのがせいぜいでしょう。そんな内向き排外的集団が、他者と協調関係を築けるわけありませんから、国内ですら協調・協力を取り付けられないといった有様になる、ということですね。
「秋色のありあ」ニチ・ケイト (CV:小清水亜美)
「恋愛サーキュレーション」千石撫子(花澤香菜)