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【歳時記と落語】清明

2020年4月4日は「清明」です。祖先の墓にお参りし、草むしりなど墓掃除する日とされてます。この頃から雨が多くなってくるんで、その前に墓の手入れをするんやそうです。あちらの庶民の墓は土盛りでっさかいに風雨で容易く削られ草が生えてしまうんですな。

元々、そのついでと言うてはなんですが、野に出て遊ぶという風習もあったんで、今は大型連休の一つになってます。

「清明」にはヨモギ餅を食べるという風習もあるんですが、もう一つ、今は廃れてきましたが「寒食」というて煮炊きをせずに冷たいもんを食べるというのもあります。これはもともと「寒食節」という別の行事やったんのんが、唐の頃に一緒になったんやとか。この「寒食節」、起源は2600年以上前の春秋時代に遡ります。

晋の公子・重耳は国内の内紛を避け、信頼できる家臣のみを供に諸国を放浪していました。19年の後、秦の後ろ盾を得て重耳は晋に戻り、恵公を倒して実に62歳にして即位し文公となります。文公は部下に恩賞を与えますが、一人介子推にだけは与えるのを忘れていました。介子推は、放浪中飢えた文公に自分の腿肉を献じたというほどの忠臣やったんですが、また清廉すぎるお方でもありました。介子推は異を唱えず、老いた母を連れて綿山に隠遁してしまいます。それを知った文公は呼び戻そうとしますが、介子推は断ります。そこで文公は、介子推を下山させるために山に火を放たせます。親孝行な介子推なら必ず母親を連れて出てくると考えたんですな。ところが、介子推は下山しませんでした。焼け跡から互いに抱き合って焼け死んだ介子推と母親の遺体が見つかりました。文公はこのことを深く悔い、自分の過ちを忘れず介子推を忘れないために、これ以降この日は火を使うことを禁じたんですな。

こうして、この日は冷たい食事を摂る「寒食節」となったんです。

ちなみ、日本ではあまり馴染みのない「清明節」ですが、沖縄では中国文化の影響が強かったので、「シーミー」して根付いております。

 さて、そろそろ桜の花も満開かという感じになっております。時候もようなったんで出掛けよか、と考えるのは今も昔もあちらも日本もかわりません。

2020年は、新型コロナウイルスの影響で、そういうわけにもいきまへんが。

ここに居りました大阪の若いもん二人、お伊勢参りでもしようやないかと、ズボラな奴があったもんででも付きの伊勢詣り。ええ日ィを選んで、赤いご飯のひとつも炊いて貰ろうて、親類近所への挨拶周りも済ませたっちゅうやつ。
安堂寺橋の家を旅立ちまして、東へ東へ。

同道は馬の合うたる二人連れ、ただひんひんと勇む旅立ち、とか申しまして、風体がよろしゅうございます。
一人は藍弁慶のあわせに、下に浴衣の重ね着。片一方は縞の千筋に下浴衣。筑前博多の帯を貝の口にきゅっと結びまして、しゃらほどけのせんようにというので細紐で一本ゆわえたある。その上から一幅半の浜ちりめんをぐるぐるっと巻きつけますと、余った端を縄のようにのうて腰へ挟みます。なんじゃちょっと見ると大木にしめなわを張ったか、すたすた坊主が堂に迷うたかという格好で。

さらの手ぬぐいを出しますと、ほうかぶらんをいたします。ほうかぶりやない、ほうかぶらん。ほうかぶりというやつは顎の下で結んで、なんやお百姓の野良仕事みたいで具合が悪い。手ぬぐいを後ろに回して髷下のところで結んでひさしを前へ突き出しますと粋に見える。これがほうかぶらん。

盲縞(めく)のぱっちに盲縞の脚絆、盲縞の手甲に盲縞の甲かけ、盲縞のわらじに盲縞の足、めくの足てなもんございませんが、上から下まで盲縞ずくめ、蝮(はめ)とり同様という格好で。道中差しの短いのんを腰へ一本ぶちこんで、道中の用意は胴巻きに入れておなかにしっかり巻きつけたある。別に小出しを財布へ入れて首からぶら下げますと懐へポーン。さらの草鞋を下ろしますと、とんとんと踏み固めます。懐重とう足元軽う。

旅はこういきたいもんですが、我々がやりますとこれがてこになっていかん。足元が重となって懐が軽うなったら、あほらして旅なんぞやってられやしまへんが。

大阪離れて早や玉造。ここに枡屋芳兵衛、鶴屋秀次郎という二軒の茶屋がございまして、ここらを二軒茶屋と申します。ここで酸い酒の一杯も酌み交わしまして、見送りの友達と別れますといぅと、後は二人連れ。
「さぁ出とおいで、心得た」

中道、本庄、玉津橋、深江へと出てまいります。「笠を買うなら深江が名所」、名前は深江笠でもその実浅い笠を一かいずつも買い求めますと、高井田から藤の茶屋、御厨、額田、豊浦、松原越えて、やってまいりましたのが暗(くらがり)峠。あら、暗峠というんやないそうで。あんまり坂が急なんで馬の鞍がひっくり返る、鞍返り峠というんがほんまやそうで。
「暗がりと、いえど明石の沖までも」面白い句が残ってございます。

十八町登りますと大師手向けの水。御所に砂茶屋、尼ケ辻。これから追分になっておりまして、右が大和の郡山、左が南都ォは奈良でございます。

「古の奈良の都の八重桜 今日九重に匂いぬるかな」古いええお歌が残ってございます。
奈良には印判屋庄右衛門、小刀屋善助といぅ二軒の大きな旅篭がございまして、幾日逗留いたしましても、夜具と家具とが変わるのが自慢やそうで。

両人、印判屋で一泊をいたしますと、明くる朝は早立ち。

ブラッと野辺へかかってまいりますと、それにひきかえまして向こぉの森の陰から出てまいりました一塊。西国辺の道者と見えまして、人数およそ百人余り、銘々笠の揃え。遠目から見ますと、さながらマッタケかシメジの行列同様。

その道中の陽ぉ気なこと。

まだまだ先は長うございます。「東の旅――伊勢参宮神之賑」でございます。

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