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【歳時記と落語】春分

「春分」は、大体3月20ごろです。この、春分を中日とする一週間がお彼岸ですな。

お彼岸というと、「ぼたもち」がつきもんですな。漢字で書くと「牡丹餅」です。「おはぎ」という言い方もありますが、あれは漢字で書くと「御萩」となります。
大体「ぼたもち」はこしあん、「おはぎ」は粒あんを使って作りますが、まあ大体同じもんです。「牡丹」は春の花で、「萩」は秋の花ですな。季節によって呼び名がかわるんです。夏は「夜船」、冬は「北窓」と言います。

また、米粒が残らない餅状のもんは「皆殺し」、米粒が残ったもんは「半殺し」てな物騒な名前もあります。

「春分」は昼と夜の長さが同じになるてなことを言いますが、実際に同じになるんは数日前です。日の出は太陽が出た瞬間、日の入りは太陽が完全に没した瞬間でっさかいに、春分の日の昼夜は太陽一個分だけ昼が長うなってます。まあ、それでも大体このあたりは同じくらいてな感覚で昔の人はやっとったんですな。時間てなもんに追われてなかった。庶民の生活は楽ではなかったさかいに、飯米には追われとったんですが。

お彼岸の噺といいますと、「天王寺参り」があります。六代目笑鶴が得意とした噺です。秋にも彼岸がありますが、噺は別にどっちでもええようにできてあります。

「天王寺さん」と大阪の人間は親しみをこめて呼びますが、ほんまは「荒陵山四天王寺」、聖徳太子が西暦593年に建立なさった名刹です。

「天王寺参り」、話の筋としては、飼い犬をなくした男が、引導鐘を撞きに行くというだけのもんですが、境内の様子やら、物売りの言いたてやらが入って、大変にぎやかな噺で、結構な時間がかかります。

同じくお彼岸の天王寺さんが舞台になってますのんが「弱法師(よろぼし)」。こちらは春の彼岸に決まっております。「菜刀息子」とも言いますが、菜刀は「ながたな」、つまり菜切り庖丁のことですが、大阪では「ながたん」と言います。

もともとは小咄であったのを、先代の桂米團治が謡曲「弱法師」に準えて整理して、今の形にしたものです。物売りの声は、天王寺さんの場面にも出てきますが、売り声だけで季節の変化を表す演出は、他にはなかなか見られないものです。

掛け合いにならずに片方のセリフだけでやり取りを聞かせたりと、難しいところの多い噺でもあります。故・桂吉朝の最後の高座としても知られております。現在では、その弟弟子の米左師匠などがやっています。江戸では故・二代目桂小南の「菜刀息子」が有名です。

「断ち包丁」を買いに行った息子が、「菜刀包丁」を渡されて黙って帰って来ます。
包丁屋の聞き違いを正すこともできない気の弱さを父親は叱りつけますが、息子は「へぇ」と言うだけ。
「世間を見て来い、家を出て行け」
そう言われた息子はその夜のうちに家を出て行方知れずになってしまします。
やがて月日は巡り、一年経って春の彼岸を迎えます。息子は死んだものと諦めた夫婦はせめて供養にと天王寺さんへ出掛けます。
物売りも出ておりますが、おこもさんも「ながながわずらいまして難渋いたしております」など、哀れな声を上げております。
そこに、声も上げることもできないおこもさんが一人。誰あろう行方不明の息子です。
父親は敢えて連れてかえらず、苦労をさせようと言い、団子を買って、母親に息子のところへ持ってやらします。
「言ぅとくで、ただやんねやないで、なんなと言わすねん。それを聞ぃてからやんねやで」
「おこもはん、あの旦那はんから施しだっせ。これ、あんたも物もらうときに何なと言ぅことがおまっしゃろ、大きな声で言わなあけしまへんで、な、大きな声で言ぅてみなはれ」

「へぇ……、菜刀あつらえまして、難渋いたしております〜」


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