【歳時記と落語】潅仏会、仏様のお噺
2020年4月30日は、旧暦の4月8日、灌仏会つまりお釈迦さんの誕生日ですな。日本では祝日やないですが、香港などお休みのところもようさんあります。
潅仏会は「花まつり」という名前で古くから親しまれてますな。童謡や唱歌もあります。「花まつり」ではお釈迦さんに甘茶をかけますが、これはお釈迦さんがお生まれになったときに甘露が注がれたという故事に倣ったもんです。
お釈迦さまが出てくるてな噺はあんまりおまへんねやが、「景清」には清水の観音さんが出てきます。
今回は仏教伝来より始まるお話を一つ。
日本に仏教が伝わったのは538年という説があります。
しかし、すぐに厚く敬われたわけやないんですな。初めは渡来人・帰化人を中心とする信仰やったんです。やがて排仏派と崇仏派が対立することになります。崇仏派の代表は聖徳太子さんとその血族にあたる蘇我氏です。一方の排仏派の代表は物部守屋。おりしも国内には熱病が流行っておりました。守屋はその原因は蘇我氏が崇める《閻浮檀金(えんぶだごん)》の仏像だと、これを葬ろうとしますが、叩こうが焼こうが損なうことができません。万策尽きて、難波の堀江に投げ捨てました。それから幾年か経ったある晩、本田善光という男が難波の池の傍を通りかかりますと、水中から自分の名を呼ぶ声がする。何やいなと思うて引き上げてみると仏像です。その仏様が「信州に行きたい」と言うので、善光が信州まで運びます。そして建立したのが善光寺で、仏様を見つけたところが「阿弥陀池」として知られる和光寺となりました。
どちらも落語に登場します。和光寺はその名通り、「阿弥陀池」。明治の末に桂文屋が作った当時の新作落語で、噺の前半に日露戦争の未亡人の話が出てまいります。
阿弥陀が池として知られております和光寺に、戦争未亡人の尼さんがおりました。ある夜、一人の泥棒が忍んでまいりまして「金を出せ」とピストルを突きつけます。ところが尼さんは落ち着き払って胸元をさっと広げます。
「過わたしの夫、山本大尉は過ぎし日露の戦いに、この乳の下、心臓を一発のもと撃ち抜かれて名誉の戦死を遂げられた。同じ死ぬなら夫とおんなじ所を撃たれて死にたい。さぁ、誤たずここを撃て」 それを聞いたこの泥棒、ピストルを落として三尺下がって平伏しました。
「私はかつて山本大尉の部下で、山本大尉は命の恩人。その恩人の奥さんのところへピストルを持って忍び込むとは、平に御免…」
ピストルを自分の胸に当てて、撃とうとするとこを、尼さんその手を押さえて、
「腹の底から改心をしたら悪人も善人もない。おまえさんも根からの悪い人ではなさそぉな。誰ぞにそそのかされて来たんやろ、誰が行けと言うた?」
「へぇ、阿弥陀が行けと言いました」
新聞を読まん男をからかって言うた作り話なんですが、時代の雰囲気がよう出てます。このあとまた同じように作り話で男をからこうて、やられた男がまねして失敗するという、お定まりの形になりますのやが、桂文屋がこの噺を初演したとき、この「へぇ、阿弥陀が行けと言いました」のところで、サゲやと思うた下座が太鼓を叩いてしもうて、高座の文屋が「まだつづきあンのや」と怒鳴って噺を続けたそうです。
さて、一方の善光寺。こちらはまた日を改めて、ご紹介したいと思います。
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