本とパンケーキが変えた代官山 ~ 都会の森が生み出す時間の過ごし方
【ケーススタディ #6】 IVY PLACE
2011年に誕生した代官山T-SITEは当時大きな話題を呼び、進化をつづけながら10年経った今でも多くの人が訪れる施設となって、代官山という街を大きく変えました。企画段階から関わっていた自分が見た、夢と汗のストーリーとは。
旧山手通り沿いの高台にあり、高級住宅街でありつつ独特の文化を育んできた街、代官山。ヒルサイドテラスにつづいた緑あふれる場所に忽然と現れた蔦屋書店やIVY PLACEは、街の風景だけではなく街そのものを大きく変えることになりました。ただレストランができるまでの過程は決して順調だったわけではなく、実は途中で一度やめようと思ったことも... もしやめていたら、大人気のパンケーキも生まれていなかったし、まったく違う施設になっていただろうと思うとちょっと不思議な感じです...
noteをはじめて半年以上経ち、最初に上げたときから次号や次々号の予定を書くことをポリシーとしてきましたが、実は最近になって色々なプロジェクトが急に動き出して多忙になり、あまり上げられていません。見続けている方にはすみませんがちょっと予定を変え、この記事をアップした2021年12月5日に10周年を迎えた、IVY PLACEの誕生ストーリーをお届けします!
■目次
1.「代官山に文化の森を創る」
2.チームに入る
3.さあ計画始動!そしてやめたくなる!
4.オープンと大混乱
5.代官山で生み出したもの、得たもの
1.「代官山に文化の森を創る」
2010年、広尾時代のシカダでたまたま会った妹の同級生から、一通のメールが届きました。彼女が働く会社が代官山で商業開発を考えているので話を聞いてほしいとのこと。会社の名前はカルチュア・コンビニエンス・クラブ、略して「CCC」はTSUTAYAの会社でした。うちがレンタルビデオ屋さんと協業するの???と思いつつ(増田さんすみません)、できたてのbreadworksにて会うことに。
ところが話を聞くと、意外に面白そうなことに気づきます。「代官山に文化の森を創る」というコンセプトのもと、木が生い茂る旧山手通り沿いの土地を開発するが、近隣のアンケートでもカフェが欲しいとの声が大きく、飲食店は重要な施設だと位置づけているので一緒にやれないかとのこと。
その土地の場所を聞き、自分は心のなかで思わず身を乗り出します。前の道路をはさんだ反対側にあるASOは、当時クルマ族にとって格好のデートスポットで、道路沿いのテーブルに座ってお茶をするたびに目の前の土地を見ながら、「こんな風に都会でも緑があふれる場所で店をやりたいなあ」と思っていた、まさにその場所!
旧山手通りをはさんだカフェからは、こんな風景が見えていました。デート相手だけでなく、この場所もちゃんと見えてたんです(「サンキyou図書館 いつだって街歩き」より)
しかも、近くのヒルサイドテラスには19年に惜しまれつつ50年近い歴史を終えた名店のトムス・サンドウィッチや、学生時代の彼女の親戚が経営していた某有名オシャレ焼肉店などがあり、自分にとっては青春時代の思い出の地でもありました。
ノースウエスト航空の社宅だったその土地は、もともと水戸徳川家の当主の屋敷があった場所でした。でもここでちょっと訂正。開業以来多くの方に、「旧山手通り沿いは大名の下屋敷が多くあり、ここには江戸時代から徳川の屋敷があって…」と話してきたのですが、実はちょっと違って徳川家の屋敷が建ったのは関東大震災後でした。10年経った今ごろスミマセン…
中に入るとこんな感じ… 鬱蒼と木が生えた庭ではCCCが犬連れのためのイベントをしたり、ひまわり畑をつくったりしていました。(株式会社アール・アイ・エーのサイトより)
ただ 山手通り・旧山手通り沿いの高台が屋敷街という話はあながち間違いでもなく、松濤にはもともと紀伊徳川家の下屋敷で鍋島藩の茶畑を経て鍋島松涛公園となった土地や、代官山には西郷隆盛の弟、西郷従道(つぐみち)邸があった西郷山公園などがありますが、地図アプリで見てみたら現在T-SITEがあるところは一面の畑…笑
「郡」の文字のすぐ左側がT-SITEのあるあたり… 畑のど真ん中… ちなみに左側の池のあたりが西郷従道邸です。下の写真と見比べてみると一目瞭然!(東京図測量原図 明治9-17年/1887-84年)
「猿楽町」の文字の左側がT-SITE。昔はまさかこんな大都市になるなんて誰も思わなかったでしょうね…(個人的にいくら見てても飽きない大好きなアプリ「東京時層地図」より ©一般財団法人日本地図センター)
この一帯はその後ヒルサイドテラスのオーナーである朝倉家が取得しましたが、水戸徳川家第13代当主の徳川圀順(くにゆき)さんが、1923年の関東大震災で向島の家が被災したため朝倉家から土地を購入し家を建てたという経緯だったのです。余談ですが、旧山手通りから中目黒にかけての西側斜面は、おそらく富士山が見える良い高台だったからだと想像しますが、西郷家・朝倉家や、岩倉具視(その後東武の根津家)が主に所有して、その後の開発につながったようです。
2.チームに入る
さてCCCからそんな素敵なお誘いを受けたものの、不安がなかったわけではありません。当時の代官山はタブローズなどの人気店はありましたが、基本的に昼間は人がいても、渋谷・恵比寿・中目黒に囲まれて夜は人が逃げてしまい大型店が集客できるイメージがありませんでした。
しかも、施設全体の中央に飲食店を置いて核とする…というと聞こえがよいですが、要は外から一切見えない場所に飲食店を置くという野心的なプラン。来なかったらどうしようとも思っていたところに、親戚からは「○○○○(某セレクトショップ)は断ったらしいけど、そんなところに出て大丈夫なの?」という電話まであります。
ただ「気」の良さだけは格別だと感じていました。東京でも色々な場所や物件を見てきましたが、この辺りの土地は際立って良い気を持っている感じがします。旧山手通り沿いには結婚式の会場も多くまさにハレの場。徳川家が屋敷を構えるような場所だからまあ損はしないだろう、ぐらいの気持ちでどんぶり勘定的にやることを決めてしまいました。
CCCに前向きな返答をすると、次に待っていたのは増田社長自らによるプレゼンテーションでした。なんとご自宅にお招きいただき、CCCの歴史から代官山の計画まで説明を受けて美味しい食事をご馳走になります。増田さん曰く、CCCはTSUTAYAの会社と思われがちだが、実は複数のプラットフォームをもつ企画会社でTSUTAYAはその一つに過ぎないんだとのこと。そして時代が変化するなかで新しいツタヤをつくる夢を熱く語っていただきました。ここまでされたら、迷ってた人もみんな落ちちゃいますよね。
増田社長による本の表紙。写真はT-SITEを建てる前の庭につくったひまわり畑です。
ターゲットは当時これから定年退職で引退してくる団塊の世代(戦後のベビーブーム世代)で、プレミアエイジと名付けた人たちを相手に大人が集う文化のある場を創り、新しいライフスタイルを提案するテナントを集めようとしていました。その世代は朝起きるのが早く犬の散歩をする人も多いが、寄れる店がないから書店もレストランもカフェも朝7時から、車で動く大人は面倒なのが嫌いなので平置き駐車場にしたい、など増田さんのライフスタイルそのものだったのかとも思います。
朝食というお題が出たものの、アメリカ、特にカリフォルニアには朝食の店も多くて自分はよく行っていたし、ビルズが七里ガ浜で08年、エッグスンシングスが10年に原宿で開業するなど日本でも朝食のトレンドは見え始めていた時期でした。ただ深夜もツタヤにあわせてやってほしいということで、当時麻布十番にあったAZABU HAUSという23時間営業の店ほどではないですが、朝7時~深夜2時まで19時間営業という異例の長さに挑戦することになります。
3.さあ計画始動!そしてやめたくなる!
計画への参加が決まり、テナントエリアの建築に関する会議に出始めます。蔦屋書店の建物は、80を超える参加者を集めた1次、さらに11人に絞って行われた2次という異例のコンペを経て決まったクラインダイサムアーキテクツによる、「T」をコンセプトにデザインした建物が決まっていました。でもその裏にあるテナント棟群については遅れてプレゼンがあったので参加できたのです。
建物全体が白い「T」となり、そのTも小さいTの形をしたタイルの集合体です。インパクトもあるし素敵な建物ですよね。(株式会社アール・アイ・エー公式サイトより)
さてプレゼンがスタート。ところが… デザイナーの提案は森どころか、デッキ張りのスペースに整然と四角い箱が並んだモダンなエリアになっていました。そして中央に陣取るレストラン棟はガラス張りの光る箱になっていて、デザイナーが嬉しそうに「これはジュエルボックス(宝石箱)なの」と説明します。
あ、このプロジェクトやめよう… 話を聞きながら直感的にそう思いました。そして次の会議で「森の中のレストランをつくるはずではなかったのか?」とやめる覚悟で伝えたのです。ところが! チームの皆も実はそう思っていたことが判明、コンペにしては異例の見直しが入り、テナント側は配置を変えて森の小道を歩くような形に変わり、レストラン棟にはなんと別の建築家を入れることが決まってしまいました。
もちろん建築家の名誉のために、当初の提案が悪かったというわけでは決してありません。ただプロジェクトメンバーから受けていた説明とあまりにも違う内容になっていのたで、それだったらタイソンズは初めから受けなかったのに、ということでした。
でもそんなこんなで、建物のアイディアまで含めた提案をすることになります。森のなかのレストラン… そのとき頭に浮かんだのは、その1年前に終わったわずか2年の結婚生活のなか、新婚旅行で行ったスリランカ。そこで見た、ある建築家による作品たちでした。
彼の名はジェフリー・バワ。
Geoffrey Bawa (1919-2003):アラブとフランス系イギリス人の父、オランダ・スコットランド・シンハラの血を引く母を持ち、一度は弁護士になったもののイタリアで見たヴィラや庭園との出会いで建築家に転身した。アマンリゾートのデザインに多大な影響を与える。
モルディブに行くために乗ったスリランカ航空でルール上立ち寄らねばならず、でも調べているうちにどうしても彼の建築を回りたくなってモルディブの時間を削ってでも行ったスリランカ。そこで見た建物が忘れられず、森のなかの開放感あふれるレストランスペースを提案し、それをスタジオアキリの宮原先生が見事に実現してくれました。
バワが週末に住む家として建てはじめ、亡くなる直前まで40年間ずっと手を入れ続けていたというルヌガンガ Lunuganga。彼は庭の樹の下に眠っています。写真だけでは伝わらない空気感は、ぜひ一度行って味わってほしい!
それとともに、増田さんへの最初のプレゼンでこう伝えたのです。 (当時のプレゼン資料より)
顧客本位の店というのはシカダのテーマでもあり、ここでも重要だと感じていたことでした。また自分はいつも店名に様々な由来をからませるのが好きですが、安直といえば安直、でも夢があるといえば夢がある名前で提案。LAにあった名店、THE IVYもヒントになりました。
4.オープンと大混乱
さて突貫で建物の設計が進み、一方で内装や料理のコンセプトも煮詰めながらプロジェクトに向けて突き進んでいた11年3月… 地震が来ました。それにより工事が中断、一部資材が入らなくなってオープンは当初より遅れていきます。
それも落ち着いてやっと工程にメドがたち、施設開業日も2011年12月5日と決まったころ、友人に結婚パーティーの相談をされました。シカダ希望でしたが貸切は受けない店だったので、「あ、新しく開くレストランがあるけどどう?」と切り出します。そして、オープン前どころか、オープンするための練習前という異例のタイミングで11月末のウエディングが決まってしまいました。
これがのちのち騒ぎのもとに… 建設会社による建築工事が(地震のせいだけではなかったと思いますが)さらに遅れ、でも一方で絶対に動かせないウエディングが入っているため割を食ったのが、建築の後に店舗をつくる内装工事の会社… ウエディング前日、まだ床さえ貼られていない状況をみて途方に暮れ、新郎新婦に泣いて謝る覚悟をしました… ところがその晩、かつて見たことのない大量の人数が現場に入り、翌朝にはなんとなんと店が完成していたのです。
ホントに奇跡としか言いようがありませんでしたが、その後無数の是正工事(ダメだったところの無償やり直し工事)が発生、一番の被害者である内装工事会社にはかわいそうなことをしてしまいました。でも無事にやれてよかったですね、FSXの藤波さん!(友人である、革新的おしぼり会社の社長さんです)
内装は独立したてだったKROWの長﨑さんに頼みました。森の中に佇む別荘のような空間には、彼のデザインがもつ上品さやナチュラルさが合うと思ったからです。彼はここで初めて古材やアンティークの照明を使ったりするなどデザインの幅も拡がったのではないかと思います。
予約をとらないお子様もOKのカフェ側スペース。10年経ち様子は少し変わっています…
バーからダイニングを望む。壁の写真については最後にちょっと話が…
プライベートテラスが付き、駐車場直通の出入口とトイレがあって誰にも会わずに使える個室は、色々な方が使ってくれます…
一方でフードは、朝食というテーマのもと当初はAll Day Breakfast でいくとプレゼンしましたが、最終的にシェフのデービッドが出したテーマは「Global Comfort Food」。Comfortの訳し方は難しいのですが懐かしくてホッとする食事というような意味で、今も売れ続けているパンケーキはもちろん、NY出身の彼ならではのミートボールスパゲティや、家主からはプレミアエイジのためにご飯ものというリクエストもあり、当初はハヤシライスやプリンアラモードまで… ただちょっとわかりにくいので、いまはアメリカやアジアまで含めてた「Pacific-rim cuisine」、太平洋沿岸の料理という表現をして、懐かしいよりもクリエイティブな料理を提供しています。
そして迎えたオープン当日。タイソンズでは開業の際、いつも1週間ほど練習を兼ねたテスト営業をしてからオープンし、強くPRせずゆっくりと店を立ち上げてきました。蔦屋書店も数日かけて内覧会を行うものの、商業施設としては異例ながらオープン日の告知は一切なしということだったので、いつもどおりスロースタートだと思いのんびり構えていたのです。ところが!初日から凄まじい数の人がきて施設もお店も大混乱に陥ります。
その原因はFacebook。2008年に上陸したもののmixiなどに押されて当初は普及しませんでしたが、2010年末で300万人超だった会員数が2011年9月には1000万人を超え、まさに社会に浸透しはじめたぐらいのタイミング。内覧会に来た人が我先にとアピール投稿して開業日を勝手に告知、今でいうインフルエンサー化してしまい、地震後に明るい話題がなかった東京で爆発的な集客力を発揮してくれたのです。
しかし現場は大騒ぎ。何しろ想定の3倍近い来客と売上… 入口の処理能力も、厨房の設備も、スタッフの数や裏側のスペースも完全に不足。しかもお店は19時間営業、修正しようにもスタッフで集まる時間もとれず、慌ててスタッフ採用をかけたり当初数か月は大混乱が続きました。
そんななか、IVY PLACEで行われた関係者のお祝いパーティ―。家主サイドの関係者が突然ツカツカと歩み寄ってきたかと思うと、「あなたそんなことしてたらこの店つぶれるわよっ!」と前置きもなくいきなり罵倒され、同行者たちのところに戻って私があいつに言ってやったわ的な雰囲気になっています。
突然のことに声も出せませんでしたが、入口の対応などが荒れていたのは確か。大量のウェイティングは完全に想定外で、真冬のため外で待てないのにレセプション台の目の前には小さなベンチ1つ… ひっきりなしに入ってくる顧客とウェイティングの管理、ひたすら鳴りつづける電話、キャパを軽く超えるクロークのコートの量、なかなか席が空かずイライラして目の前で待つ顧客… ホスピタリティ以前の問題で、どうやっても荒れます。
朝から晩まで休みなく料理やドリンクが暖炉前を飛び交うなか、この狭いエリアで200席の顧客の出入りとウェイティングの受付、クロークの受け渡しを行いながら、すぐ目の前には下からにらみ続けるお客さんのプレッシャー…
このままではまずい… せめて顧客とレセプションをウェイティングのストレスから解放してあげようと思い、施設全体をウェイティングスペースにするしかないと考えました。そしてネット検索でたどり着いたのが携帯ショップの順番待ちシステム。今でこそ飲食店でも見ますが、順番を待ちつつ外出できるようになっていたシステムを入れ、書店などで時間をつぶしてもらうことで入口の問題は2-3ヵ月で解消できました。またスタッフも慌てて追加採用、天王洲のケータリングキッチンなども活用したり、ビデオをレンタルして見られるという触れ込みだった2Fのテレビ付き個室をつぶしてスタッフ用スペースにするなどして何とか状況は落ち着き、店は育ちはじめました。
そして時は経ち、混乱のオープニングからこの記事をあげた日でちょうど10年。朝食のマーケットはそれ以来ひたすら伸びつづけ、コロナでディナーが沈没するなかでも会社の業績を助けてくれました。一方で深夜の時間帯はちょうど衰退していた時期で、顧客だけでなく働きたいスタッフが減るというライフスタイルの変化で早々にやめ、今の22時ラストオーダーに落ち着きました。そういった変更というか調整はありましたが、今もIVY PLACEには平日週末を問わず多くの人が来てくれます。
5.代官山で生み出したもの、得たもの
生み出したもの
出来たときは小さかった木々も10年で育ち、IVYのテラス前にそびえる樹齢数百年の大ケヤキと少しはバランスがとれるようになってきたかと思います。時が経って施設が街の風景に溶け込んだように、IVY PLACEは外部からの顧客だけではなく近隣の人たちにも食堂やカフェ的に使ってもらいながら、地元に溶け込むことができました。
代官山T-SITEとお店たちは、代官山での時間の過ごし方を提案し、街の風景を創り出しました。周囲の賃料ももともと安くはないですがさらに上がり、良いか悪いかは置いておいて人の流れが生まれて町は活性化、多少は地元への貢献もできたのかと思います。
こうした開発を可能にしたのは、オーナーを中心とした少人数の強いリーダーシップによる開発から運営までの体制でした。そして増田さんが当時口を酸っぱくして言われていた「ライフスタイル提案」をする施設は、都会での朝の過ごし方も含めて大きな流れを生み出したと思います。今もデベロッパーの方には出店で声をかけていただくことがありますが、大きな会社の商業開発では残念ながら担当者の想いと現実の環境が一致していないケースも多く、そうした図面や条件を見るたびに熱い想いもなんだか薄く感じられてしまったり… 一方、代官山は何しろ参加していて楽しかったプロジェクトでした。
店づくりも楽しみました。左側の壁にかかる金属のツタがからまる鏡は、ロンドンの芸術大学、セントマーチンズに通っていた従妹の武田麻衣子に頼んでつくってもらったもの。入口にも白い作品があります。彼女の作品は歌手の bjorkがつけてくれたりして、卒業後イッセイミヤケさんで帽子や小物のデザインを担当することになります。【maiko takeda 公式サイト】
自分も趣味のコラージュ作品をつくってしまい、バーの壁にさりげなく飾られて、高い位置から下を通るお客様を自分が毎日見下ろして… いや見守っています。(ちなみにはるか昔、千利休は豊臣秀吉がくぐった門の上に自分の木像を置いた罪で切腹させられました)その後、他の店でも寺田のコラージュはひっそりと隠れてお店とお客さまを見守っていたりします。
得たもの
この開発のあと、TSUTAYAから脱皮した蔦屋書店は湘南や二子玉川、佐賀の武雄をはじめ海外へも進出、CCCの大きな力となったことは多くの方がご存知のとおり。商業施設の関係者がオープン当時に代官山を見て、どうやって儲かるの?と言っていましたが、T-POINTの普及なども含め、それだけではないもっと大きな目的を達成しているように見えます。
タイソンズにとっても、このプロジェクトは大きなきっかけをもたらしてくれました。それまでタイソンズは単なるビルテナントとしてのお店しかやってきませんでしたが、うちのお店が好きな担当者の働く家主さんとの協業で、企画段階から入れたことは貴重な経験でした。オーナーの大きなヴィジョンと、そこに人を呼び長く続く店づくりができるタイソンズの力の融合という成功体験から、その後は建物オーナーとウインウインの関係になるプロジェクトを手掛けることが多くなります。(これからのストーリーでもまた説明していきます!)
またそうした経験は、現在コンサルティングの仕事にも役立っています。どんな場所でも成功させる魔法を持っているわけではないですが、でも大きなヴィジョンがある場所や、地域にとって核となるようなやりがいのあるプロジェクトは大好きです。実は進行中のものなどもあるので、それはまたタイミングが来たらこのnoteでも裏側を書いてみたいと思っていますのでお楽しみに!
山形県酒田市の日和山にできたヒヨリベーカリー&カフェや日和亭という甘味処の計画も、ご縁あってお手伝いしました。桜やお祭りの時期を除き人があまり来なかった場所に、人が集まるようになりました。街のシンボルになりうる場所です!
そして365日営業のIVYは、今日もケヤキの木の下で朝昼晩と異なる表情を見せながら、多くの顧客を楽しませています。ずっとやれるといいな、そんな風に思うお店を創れて自分は幸せだな、と書きながらつくづく思うのでした!
今後の記事:
【ケーススタディ #6】THE ROASTERY/ SMOKEHOUSE
2013年、キャットストリート沿いに建つビルの1・2Fにできた2軒のお店。当時まだ浸透していなかったサードウェーブコーヒーとバーベキューのお店という、当時のアメリカでトレンドになっていたお店はどうやって実現したのか?