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CICADAのつくり方【1】広尾編 君はあの頃の3Cを知っているか!

【ケーススタディ #3】 CICADA

2003年、広尾と西麻布の間にでき、瞬く間に外国人を中心とした客層で人気となったCICADA(シカダ)。2012年に表参道に移転してパワーアップ、19年目の今も多くの人を惹きつけています。その2回の誕生秘話を二つのストーリーに分けてお届けします。

先日Twitterで店名がトレンド入り… 夜中にPRから電話が来たときはヤバい炎上か?と焦りましたが、どうやら色々な年齢層の思い出とリンクしているが故の、巻き添え事故みたいなものでした… でも多くの人の記憶に残るからこそ19年目の今も話題にしてもらえるわけで、ありがたいことだと思います。

シカダは、この店のおかげで今の自分とタイソンズがあると言っても過言ではない大切なお店です。この店をきっかけにして会社は羽ばたき、多くの人材を生みました。生まれて初めて一からこの店をつくった時、自分は弱冠31歳。多感な?30代を過ごし、40歳にして表参道への移転をやりとげました。

我ながらよく2回も名作をつくれたと思う、シカダのすべてをその2回に分けて語ります!

■目次
1.初めての出店場所探し
2.初めてのレストランづくり、はじまる
3.事件は現場と会議室の両方でおきました
4.初めてのオープンから3Cと呼ばれるまで

1.初めての出店場所探し

97年に開業したT.Y.HARBORを2年後に引き継ぎ、何とか立ち直るまでは前のストーリー「閉店寸前だったレストランの来客数が、しながわ水族館を超え50万人になった話」に書きました。その成果のおかげか?社長に就任したのが2002年、29歳の春。

デービッドからは、1軒のシェフで終わるつもりはないし、次はイタリア系アメリカ人である自分のルーツでもあり、毎日でも食べたくなるような地中海の料理をやりたいと言われました。それなら都心でやろうということで、人生初の物件探しが始まります。

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まさにシカダを企画していたころ。地中海とデカく書かれたクックブックを傍らに、デービッド君はまだ見ぬシカダの夢を見ていたのでしょうか?

T.Y.HARBORというずば抜けた世界観を持つ店の次ということで、自分の頭にある唯一にして最大のテーマは「TYのお客さんをガッカリさせない、TYに負けないハコ」… あの店を開けた父親への対抗心があったのかも??? でもそれ、都心で探したら苦労しますよね。

ホントに100軒は物件を見ました。色々な不動産屋さんに呆れられて紹介が減ってきたころ、友人がついにドンピシャな案件を持ってきます。キャンティなどヨーロッパ系の名店がいくつも存在し「地中海通り」とも呼ばれた外苑西通り、広尾と西麻布の間にあるイ・ピゼッリという店の場所でした。

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イ・ピゼッリ ― 郷ひろみが二谷友里恵にプロポーズしたエピソードもある、バブル期の伝説的イタリアン。地中海通りの象徴的な店の一つで、クッチーナ・ヒラタの平田さんもここにいました。真っ暗なバーでデートした方もいるはず!写真のレストラン入口を覚えておいて下さいね

そこは100坪近い大箱、地中海通りの名店キッチン5の優子さんに「そんなに大きい場所で大丈夫?」と言われましたが、軽く倍以上のサイズがあるTYをやってきた自分には程よい感じに見えます。慣れって恐ろしい… 

そこに店があったら自分なら行くよなあ... という想いは、何回か見るうちに意中の相手に出会えたという確信に変わります。まあ簡単に言えば恋に落ちました… その結果、当時の西麻布は夜の一大繁華街だったとはいえ、え?そんな金額払うの?と今なら思うぐらいの高い家賃で契約をしてしまいます。

2.初めてのレストランづくり、はじまる

とはいえ物件が決まれば、さあレストランづくりの始まりです。料理とオペレーション構築以外はすべて自分の担当で、まずはデザイナーを… と思うもツテがなく、同級生のつばめグリル現社長が紹介してくれたbazikの滝澤雄樹(たきざわ・たかき)さんと、あと二人にコンペ参加をお願いします。そして滝澤さんに依頼することが決定。

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滝澤さん、当時の写真がなくて、その10年後ぐらいの写真です。でも正直なところあんまり変わってないです。

準備にあたっては、海外へ合計3回も行きました。

まずはやはり地中海。バルセロナ、ニース、イタリア西部のチンケテッレなどをデービッドと周り、ひたすら食べて飲んで地中海沿岸のライフスタイルを感じました。その時にポルトフィーノの海岸で聴いたセミの懐かしい声の響きは、そのまま店名につながりました。(CICADAとはラテン語でセミの意味、地中海にも多いらしく、南仏ではセミグッズまで見かけました)

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バルセロナのマーケットにて。案内してくれた現地に住むデービッドの友人(一番右)は、たまたまアメリカの大学院の先輩でもありました。

また当時バルなどが流行りはじめていたLAへも、デービッドやスタッフと1回行ったあと、滝澤さんともレストラン視察へ行きました。自分が実現したい世界を形にしてもらうにはデザイナーに体感してもらうことが絶対必要だと思ったのですが、このパターンはその後定番化します。

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A.O.C. (Los Angeles) - コンセプトが近かったのですが、料理・空間・ホスピタリティ、あまりのレベルの高さに若かった自分はとてつもない衝撃を受け、ベンチマークとした名店です。今はこちらも移転して混みつつも昔の面影はあまりないのですが、すべての面において影響を受けました。 (Photo ©THE CULTURISTAS)

3.事件は現場と会議室の両方でおきました

デザインとあわせて工事がはじまるのですが、そこで1回目の事件が発生します。解体を自分たちでやる契約だったので始めたところ、一つの大空間だと思っていたスペースに実は抜けない壁が存在することが判明。旧店の図面からは読み取れなかったのですが、もし今それを部下がやったら相当呆れてしまいそうな重大事案が発生です。

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解体したら、スペースのど真ん中を隔てる壁と、耐震補強したような開口が出現いたしました… イ・ピゼッリではレストランとバーを隔てていたこの構造壁、ちょっと不安になりましたが幸い何事もなく終わりました。

それまでは広いダイニングをつくろうとしていましたが、設計はすべてやり直し… そして店の真ん中に個室やオフィスがあり、客席がグルっと取り囲むシカダ独特のレイアウトが生まれました。小箱が多いエリアだったので、大きな一体型スペースよりも細かい空間に分かれて居心地が上がったことは、結果オーライだった気もします。

そしてもう1つ事件が起きました。

施工会社は相見積もりをとって最安値のところを選びましたが、工事開始後もいわゆる追加工事で最終的な支払金額は変わります。ところが更新された請求書で単価を全部ごまかして上げていたり、工事現場をチェックしたら見積より安価で質が劣るものを使っていたりするのを発見して、大騒動になります。会議室に冷たい空気が流れるなか、普段から温厚な自分が人生で本当に一回だけ、人前でキレて書類をテーブルに叩きつけました。

そうした数々の試練と苦労はありましたが、店舗は何とか完成します。

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入口の場所にどうしても違和感があって移動し、先ほどのイ・ピゼッリ時代の入口は窓に。交差点から見えるパンパンの店内は、存在感という意味で大きなポイントでした。でも、もしガラガラだったらそれも丸見え…と思うと非常に勇気ある決断!もちろん当時はそこまで考えるわけがありません。

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そしてこれが交差点から見えていた店の風景。自分が叩きつけたのは見積書でしたが、滝澤さんはオープン直前に写真の椅子を、脚にカグスベールがついてない!とキレて床に叩きつけました…こ、壊れちゃうよ…

3.初めてのオープンから3Cと呼ばれるまで

お店はできたものの、何しろ初めてのレストランオープン。家賃はもう発生していますが、慎重を期したい自分としては時間をかけてトレーニングすることを選びます。1週間以上かけ、関係者やこれまでの常連さんなどを呼びながら徐々に負荷をかけてトレーニングしつつ、日々問題点を修正してオペレーションを完成させていきます。

そして2003年9月24日、ディナーにオープン。LAから来たもう一人のパートナー・ジョセフが、「お店を開けるとき自分はいつも最初の客になるんだ」と言ってビールをオーダーし、デービッドと3人で祝杯をあげました。そのときデービッドが落ち着いた声で、「自分の人生で一番スムーズなオープニングだったよ、ありがとう」―その瞬間、ちょっとホロっときました…

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オープンのお知らせハガキ。左のアスパラと右のチキンタジンは今もメニューに残ります。サフランのパンナコッタも美味しかったなー

そんなデービッドが掲げた料理のコンセプトは「Mediterranean-inspired food & wine」。先日も来日したばかりのモロッコ出身シェフが店に来て、これは地中海料理ではないとわざわざ自分に忠告してくれたのですが、ホントに地中海料理ではなく「地中海料理にインスパイアされた食事とワイン」なんです。今も人気のクラブケーキなどは地中海っぽくアレンジされているとはいえ米国の伝統的前菜だし、あちらには存在していません。でも地中海や中東のお客さんも多いんですよ。

色々なメディアはPR資料どおり「地中海沿岸の料理」と書きましたが、自分が知るかぎり1人だけ「これはネオアメリカン料理だ」と書いた方がいました。すごい!実はちょっと前から米国ではバルなど地中海系レストランが流行し、その流れに乗ったコンセプトでもあったのですが、情報の少ない時代に的確に表現してくれたのは確か伊藤章良さんだったような記憶が…

さてそんなシカダでしたが、当時はSNSもなければ雑誌に載るのは店ができて数か月後という時代だったので、スロースタートで半年後には黒字かな、と営業のトップと悠長に構えていました。ところが開業からすぐ店がブレークします。

国際金融系は今やシンガポールや香港に拠点を移していますが、当時まだ東京がアジアの中心で、裏にある南麻布の山の上にはいわゆるex-pat(エックスパット、外国人駐在者)が大量に住んでいました。そうしたコミュニティであっという間に口コミが拡がり、すぐ連日満席に。ある日は店で食べていたら、視野に入っていた数十人の顧客すべてが外国人などということも…

徹底的に重視したのは使いやすさとコスパでした。ラストオーダーは朝2時でコースとか押し付けは一切なし、すべての料理が当初2000円以下、サービス料もなければ20種類以上あるグラスワインは量も価格もボトルの1/5。当時は西麻布の全盛期で深夜まで人があふれ、自分の世代以上ぐらいの人たちにとっては記憶に深く刻まれる店だと思います。その雄姿を一挙公開!さあ青春を思い出せ!

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この大テーブル(通称:コミュ―ナルテーブル)では、自分世代の友人たちが夜な夜な合コンという名の宴会を行っていました… 団体も多く、12名定員のテーブルに20人ぐらい座っていたことも。なおこの照明は本当のキャンドルを使ったシカダのアイコンですが、その後類似品も見かけました…

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ダイニングルーム全体はこんな感じ、暖炉もありました。ほどよいサイズ感と、低い天井ならではのうるさいぐらいなノイズ感がシカダらしさでもありました。でも英語のガヤガヤ感ってなんか耳に心地よいんですよね。

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ダイニングの奥はブース席… ここはヒソヒソしたい人たちの席。時間が経つのを忘れて語り合う人たちやカップルが結構いました。現在のシカダにも引き継がれています。

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バーにも大テーブルがあって団体が入ったり、深夜まで色々な人間模様がありました。毎晩のようにいましたが濃かったなー、楽しかったなー。

しかし考えてみると、もし今31歳の若者がこんな店を開けたら、コイツすごいな思う気がします。しかもそれが初のレストラン開業… 当時は必死に周囲の力を借りて駆け抜けただけですが、苦労はあったものの自分の初作品は順調な滑り出しをしました。そしてシカダは、当時六本木にあったカシータ(Casita)・現在はレフェルヴェソンスと名前を変えたサイタブリア(Citabria)とあわせ「3C」などと呼ばれ、一時代を築くことになります。

表参道編 Twitter論争まで生んだその魅力】につづく…



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