なまえのチカラ。
株式会社エクシングのクリエイティブ・ディレクター、野村です。
「ハナノナ」というiPhoneアプリを知っていますか? 咲いている花にカメラをかざすと名前を教えてくれるのだそうです。犬を連れて散歩をしながら試してみました。いつもの道のすみっこ、誰が育てたわけでもない小さな花に、ちゃんと名前があることに驚いてしまう。どこにも書いていないのに、聞いても答えないのに、ずっと前からこんなに立派な名前があったのだなあ、と。
名前を知るまで、その花は僕の中では存在しないのと同じようなものでした。それがひとたび名前を聞くと、世界の隅に新しい知り合いができたような気持ちになるのです。次の日も、その次の日も、まだそこに咲いているのか気にかかる。誰かに踏みつけられたり、ひっそり色褪せていくのを見るとさみしくなる。名前を知るというのは、自分が属する世界で大多数を占めている「その他」から対象を切り離して浮かび上がらせることなのでしょう。映画のなかで初対面の人物が知り合うシーンが名前を伝えるところからはじまるように、名前には新しい関係性をつくる力があります。
広告業界に飛び込んで最初に担当させていただいた輸入車ブランドは、車種を主に数字で呼んでいました。当時で言えば、318i、525i、735i…そんな具合に。彼らの競合もアルファベットと数字を組み合わせて名前をつけていた。最近では一部の国内メーカーもこれに近いスタイルでラインナップを構成しています。もちろん少し詳しい人なら、英数字だけでもどんなクルマかすぐ伝わる。伝わるどころか、個々には特別な意味を持たないはずの数字やアルファベットが、特定の組み合わせと配列によって神々しい輝きを放つことさえあるのです。
それでも自分は、「なまえ」がないのは少しさみしい気がしてしまう。遠い昔、高校生の頃はご多分に漏れず"インテグラ”や”セリカ”といった車に憧れたものです。免許も持たない当時の僕は、実体としての自動車よりも、むしろその名前の響きに心を奪われていたような気がしてなりません。そんなわけで、型番がそのまま名前になっているような商品を見ると、余計なお世話と思いつつ、なにか名前をつけてもらえたらいいのにと気をもんでしまう。ひと昔前に、もし「ルンバ」という名前がなかったら、お掃除ロボットの認知・普及はもう少し遅れていたのではないでしょうか。
名前がある。そこにはネーミングの響きとはまた別に、名前をつけられたという事実そのものに作り手の想いを感じ取ることができます。なにかの願いを託されて世に送り出された「愛されている感」がある、と言えばいいでしょうか。人の名前もそうです。息子が幼稚園の頃に名簿を見せてもらったら、顔も知らないクラスメイトの名前ひとつひとつに込められた想いをずしりと感じて、それだけで胸がつかえるような気になったものです。
コピーライターという職業にあっても、何かに名前をつけるというのは特別な仕事です。まだ世の中にない商品から、目新しさを印象づけるキャンペーンタイトルまで。縁あって名付け親になるからには、みんなに覚えてもらいたい。愛されてもらいたい。頭の片隅に思い浮かんだ名前を、いつかみんなが当たり前のように呼んでくれたなら。それは自分の名前が知られるよりもずっと素敵なことだと思います。