「研究」 と 「表現」
自分は研究が好きだ。
研究が好きというが、私は本当に「研究」を理解しているのだろうか。
6年間研究したつもりになっているだけで、「研究」を理解していないのではないだろうか?
このような疑問を走りに、自身の研究に対する考え方を整理して、
今、漠然と感じている「研究」のあり方を考える。
私の思う研究とは
まず、自分が考える「研究」の定義は、
「未確認の事象を発見or実証し、それを繰り返し多角度的に再現することで、その事象を再現するための必要十分な情報を、既知の情報と関連付けて表現する事」
である。
そもそも、これは一般的な考えなのか?
確かめるしかないだろう。
wikiを一般的な情報と考えて、研究がどのような定義で記載されているかを日・英両方で明らかにすることで、一般的な研究の定義を見てみよう。
日本語wikiにおける研究とは
つまり、研究とは過程であると考えられている。この定義には、表現することが入っていない。まぁある意味を行為は立派な表現手法ではあるが、その行為を他に発信する形の表現ではない。
では、英語版のresearchを見てみる。
英語版wikiにおける研究とは
このことから、人類の知識を増やすための創造的・系統的な活動に努めることが研究だと定義されている。
(上記の引用で ”~” 部分は引用している部分なので、この書き方だと孫引きになっている点は注意していただきたい。)
ニュアンスとしては私が定義している「研究」は、表現する事(文章、モノ、映像等の知覚可能な状態に変換する事)が必須であると考えるので、日本語wikiで書かれているような「過程」という定義ではなく、どちらかというと英語版の「研究」に近い印象がある。
三つの「研究」の定義を比較して
wikiはある意味たくさんの方に見られており、これまで多数の修正が入った中であの文章に落ち着いていることを考えると、一般的な意見を完全にないがしろにしているわけではないだろう。このため、少なくとも二つ以上の定義に含まれている共通項を「研究」と定義すると
「知識を繋げること」(これは三つに共通している)
「様々な観点から調べること」(三つに含まれる)
「創造すること」(自分とResearchの定義に含まれる)
となる。ある意味、調査や実験等を一つの表現としてとらえると、すべての研究には大なり小なり「表現すること」が必要なのだと思う。
アカデミアにおける一般的な研究とは
では、大学の研究を例にとって、研究がどのような表現をされてきたのか見てみよう。結論から述べると、これまでほとんどの研究が「論文」という形式で表現されてきたのが分かる。さっと調べる限りでも、The Royal Societyでは1665年にVolume1が発刊されており、細かな記載方法は変われど、主要な方法は変わっていない。354年間、環境は様々な変化が生じてきた。それでもなお、表現方法に大きな変化がないことは、つまり、論文という、新しい知見を伝える手法は、かなり最適化された手法の一つであるといえる。
その一方で…論文の問題点
ここまで、論文は、現状研究を表現する伝統的かつ強力な方法として一般的に考えられている。しかし、本当に論文は現代において最良の方法なのだろうか?
考えても見てほしい、今情報表現する方法は爆発的に多様化してきている。大きな流れとしては
①言語(ベースの方法)以降すべての基本的情報伝達手法
②絵
③文字
④画像(間接描写、絵)+ 文字
⑤画像(直接描写、写真など)+ 文字
⑥動画 + 文字 + 画像
という流れで問題ないだろう。より詳しい歴史的なことは歴史家や言語学者に任せることにするが、大方このような流れで情報伝達が進んできたことは同意できると思う。簡単に言うと情報伝達は
間接表現→直接表現
に変わってきている。
初期は言葉で間接的に表現し、絵を用いて間接表現が少し直接表現に近づいた。それからさらに直接表現が進み、今では動画等で直接料理や感情までをも伝送できている。
ではこのような中で、研究者がとり続けているメインの手法は何かと言うと、③と④である。もちろん動画による表現もあるが、文章による表現に比べると多くはない。このようなときに自分は、漠然と今の研究の表現方法が最適かどうかに違和感を感じてならない。それなのにも関わらず、多くの研究者が論文生産第一主義であることへの同調圧力にある意味嫌気がさす。
もっと多様性はないのかと考えてしまう。
この漠然とした違和感を、まず具体化して考えてみよう。
論文は間接表現である。
今までのことから考えると、論文のメインの情報を持っている媒体は
「文字」
である。このため、文字は直接的に現象を描画しているわけではなく、画像よりも直接性は低い。簡単な例を挙げると、「小さい穴にDNAを通す」と表現すると、その小さい穴は実際どのような大きさなのかを読者にゆだねることになるのは想像に容易い、もちろん、その分野に詳しい人は勝手に「大体15~30nmぐらいの直径の穴だろう」とか変換するだろうが、それ以外の人は様々な大きさの穴を想像するだろう。通常であれば、このような状況に陥らないために基本的に、論文では単一解釈ができるように、定量的に表現できるものは、すべて定量的に表現する。それでも、やはりすべての細かい情報を文章化することは難しく、実験に対して、重要であるが細かな内容であるため、内容が抜け落ちていたり(あるいは、あえて抜かれていたり…)して、情報が多様に解釈されてしまう。このように、文章化は事象を直接表現しているわけではなく、多くの語弊や不明瞭な点が生まれてしまう宿命にある。この問題があるがゆえに、実験が再現できない問題が蔓っている。
情報の直接的な表現方法はないのか
この記事自体、文章で間接表現をしているのだけれども、これは、論文のような単一解釈が重要視されているのに対して、あえて多様な解釈を促すためのものである。
見出しの話に戻るが、研究では単一解釈を求める場合が多くある。実験方法、実験装置、実験試料等多くのものは、何をどのように使ったのか、を直接的に表現するほうがわかりやすい。文字だけの料理よりも、動画を使った料理の方が分かりやすいのと同じだ。複雑になればなるほど、間接表現では、情報を伝えきれない。
「研究」を表現するための「動画」について
つまり、研究も動画として表現するほうが効率が良くなると私は思う。
これは今までの使い方のような一部の実験を動画で示すということではない。実験の方法やら、動作を動画に残す。あくまでもメインは動画でサポートが文字や画像だ。これが今後の研究の表現方法になるだろう。
ここで生まれうるだろう、Peer reviewの問題や、起こりうる不正に関しては、現在執筆中である。
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