『妄言』ショート・ショート
「○○ちゃん、これどう思う?」
友人に呼ばれてどきりとした。手に取っていた商品のコップを落としそうになった。○○という言葉を胸内で反芻する。名前の部分だけ吹き抜けのように空白だ。いらっしゃいませ、という店員の独特な甲高い声が店内に木霊する。ああ、名前を呼ばれたのだなと随分あとになってから気がついた。急に反応を鈍らせた私を友人は訝しげに見る。あなたは自分の名を知らないの、と責められているようだ。トンボ柄のコップを棚に戻して曖昧に言葉を濁した。
「すいません、名前に慣れていなくて。」
「そういえば、ずっとあだ名で呼んでいたね。」
別にそういう決まりごとを作ったわけではない。気がついたらそれが約束ごとになっていたのだ。聞き覚えのない音の集合。どんな昔に遡っても自分の名を呼ばれた記憶が無かった。私が私であることを証明するはずの物が私の中で欠落していた。だからといって、特段悲しいという感情は無い。新たな事実を発見して驚いたくらいでる。
思えば、母はいつも私の名前を呼ばなかった。いや、呼ぶことができなかった。良く似た名前である姉といつも間違えるのだ。それを聞くたびに、硝子の小さな破片が心臓に突き刺さった。少しずつ身動きの取れなくなる心臓。彼女の中に「私」はいない。しかし、私は母を責める気にはなれなかった。彼女は信じていた。自身が立派な母であると。自身の家族が幸せであると。蟠りなど存在しない。そして、それが彼女の全てだった。ならば、その偽りである彼女の世界に埋もれよう。
彼女は知らない。硝子ばりの壁を。
だが、それでも良いと思った。
「呼ばれている内に、馴染むでしょう。」
友人は何でもないことのように笑った。そうですね、と答えた私の声が届いたかどうかは分からなかった。
あとがき
10年前大学の課題で書いたショート・ショートを発掘。
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