病気のほんとうの治療法
1.自分を悪者にする
「病気は罪悪感がない所には来ることはできません。
というのは、病気は罪悪感のもう一つの形にすぎないからです。」
(奇跡のコース)
何を言っているんだろうか?
罪悪感とは、『悪いことをしてしまった!』という感情や思い
たとえば、幼少期であれば
~ちゃんに悪いことしちゃった!
ウソをついて悪い子
~するなんて自分はなんて卑怯なんだ!
等々、親や先生から言われたりして、あるいは反省して自分を悪者に仕立て上げ、自分を責めたことがないだろうか?
また、大人になってからも例えば家庭で我が子に
あっマズイ!また感情的になって怒っちゃったよ!傷ついたかな?悪いことしちゃったよ!
職場で
同僚で仲の良いA子が社内でミスをして、上司から酷い言葉を浴びせられている。口では「気にしちゃだめよ!」と言いながらも、内心ほくそ笑んでいる自分に気づき『私、悪いわね!』と自分を責める
まじめな人ほど人を責めるより自分を悪者に仕立て上げ、自分を責めてしまうのでは?
今までの倫理観では、人を責めるより自分の責任を感じ、自分を責める人の方が高潔な人間として見られなくもない
しかし、それはどうであれ
たとえ無意識であろうと、自分を責めるエネルギーは、攻撃するエネルギーとなり、自身の心身に緊張を与え、心身をこわばらせ体内の生命エネルギーの流れを遮断してしまう
この生命エネルギーの円滑な流れによって心身の自然治癒力が活性化し健康が維持されているのだ
したがって、この自分を悪者に仕立て上げ、その代償として自分を責める罪悪感という負のエネルギーは
正常な生命エネルギーの流れを滞らせ、その部位に病気という異常を引き起こしかねない
2.相手を悪者にすればいいのか?
では、自分を責めず、相手や世界を悪者にすればいいのか?
昔から「世界は自分の鏡」
あるいは「世界は自分の投影」とはよく言われる
因果応報などと、遠回しな言い方もある
これらを受け入れるなら、自分を悪者にして自分を責める代わりに、
他人や世界を悪者にして責めても、結局同じことである
自分を悪者にしようが、他者や世界を悪者にしようが、その代償として自分が責められ、負のエネルギーに攻撃され
自分の心身の円滑な生命エネルギーの流れが阻害され
エネルギーの停滞した部位に機能障害を起こさせる
どんなに栄養をとろうが、ポジティブな感情を持ち続けようが、大元の健康を支える自然治癒力が弱まれば、それらの効力も軽減されざるを得ない
仕事がうまくいかないのは、運が悪い、リーダーが悪い、マーケティングが不十分、予算が足りない、部下の教育がなされていない、家族が理解して協力してくれない、
などなど他を非難し責め挙句は
世の中がひどいのは、権力者たちが己の利権をむさぼることばかりに躍起になっているから
そういう奴らが悪いから自分たちが知らぬ間に搾取され、ひどい現実になっている!
これらもみな自分に跳ね返ってきて、結果、自分を悪者にして意識しようがしまいが自分を責め、自分で自分の首を絞めることになる
最近、そういう人が多いせいか
一億総病人時代、心や体に何らかの病気を抱えている人がほとんどで
病気とは無縁の心身ともに健康な人の方がはるかに少ない気がするのだが
3.病気を元から絶つ
まずは、何が起ころうと、それに対して抵抗せず、あるいは嫌がる自分に気づいても、まずは受け止めることが第一
自分の弱さや無力が露呈されても、それを受け止め、他に転嫁せず、言い訳せず、その時の無力感や不甲斐なさをしっかり感じきり、後に残さないことだ
病気の原因を外部に求めてる限り、どんなに健康のためによかれと思ってやっても、一時はいいかもしれないが、大元の罪悪感という火種を燃やし尽くさない限り、いつまた病気予備軍がくすぶるとも知れぬ
病気の原因の大元は潜在意識に蓄積させた自分を責める罪意識と知り
それに気づいたら、スルーしないでしっかりその感情を味わい、火種が残らないように感じ尽くす
仮に負のエネルギーが開放されず、潜在意識に残留していれば、いつかまたその感情体験を促すような別の現実が来るので、それを待てばよい
形は違えど、自分を悪者にし責めたい衝動にかられるような現実がやってきたら、今度はそれと知り、頭で解釈して言い訳せず、しっかりその体験を感じきること
とにかく感情体験こそが、人生の体験でもっとも重要視されるのだ
なぜなら、人生の主たる目的が、愛の人になることだからだ
愛を深めるために、どのような人に対してもその人の気持ちがわかる感情豊かな寛容力が求められるのだ
愛ある人になって完璧な健康を手に入れよう!