72.ズバリ保育観&価値観4900億/20【忘れていても可愛いよ】
私自身を振り返る。
私はいつまで可愛かったのか?
人と比べてということではない。
目をつむって、子どもの頃を思い浮かべてみる。
いつまでの自分を可愛いと思えることが出来るのか。
高校生の時。、、、なんとかクリア。可愛い。
では、高校を卒業した後の自分は可愛いか?
アルバムを見ながらこの記事を書いてるわけではない。
高校生の自分を、可愛いと、クリアさせたのは、内面の部分で、もっと小さかった、物心ついた頃と、心が引き続いているから。その内面の部分に引っ張られている。
ずっと繋がっている。
ただ、年下の人と関わることが多くなったタイミングから、今の自分から見て、可愛いとは違うように思う感覚が出てくる。
『可愛い』とはどういうものか、その感覚、価値観は、人それぞれにあるもの。可愛いとはなんぞやと、書いていくのはやめておく。
『自分を自分で可愛いと思えるか』
『自分は今、自分で自分を可愛いと思う時期を越えてしまってるのじゃないか?』こんな問いを思いついた。
可愛いと言ってる場合じゃないんじゃないか?
自分を可愛いと思っても、まわりはそう思うのか?
まわりが思うか否かは別の話。
可愛いかったらなんなんだろう。
可愛く見えてたらなんなんだろう。
ともかく、可愛いは、自分の努力の成果ではない。
食や、睡眠、紫外線、疲労、刺激、それらを調節することを、可愛さのためにやるのか?
私はそうじゃなかった。
私の可愛さは、授かったもの。
その授かった可愛いさは、今あるのか。
授かった可愛さを、特に保つために努力はしてこなかった。
なぜ?
可愛い自分より大人になりたかったからか?
可愛い大人はイメージつかなかった。男だからか?
なりたい自分が、大人だった。
なりたい大人のイメージの中に、可愛いがなかった。
だから、自分自身の可愛いに頓着がなかった。
だから、改めて自分を見たそのときには、
可愛い時は過ぎていた。
可愛いを通り過ぎたところに、なりたい大人があると思っていた。
また、可愛いと見られているようではまだ大人じゃないと思っていたのかもしれない。
今、改めて、私は歳を重ねて、見た目は可愛いとは違う。可愛いという時期は過ぎている。
ただ、振る舞いや思い方などが、幼い面もある。
それを、可愛いなとも思える。
歳を重ねた私の中に、未だに幼い内面がある。
未だに、まだここにいてくれてありがとう。
ずっとこの先も残っていてくれるような気がする。
小さな頃の自分と同じ心。今の自分の心。
繋がってるんだ。
消えないで欲しいとも思うけれど、
赤ちゃん帰りも、「それはちょっと」とも思う。
自分では、早く大人になりたくて、なかなかなれた実感も持てずに、持てなくても時が大人にしてくれた。
可愛さを失いながら。
大人に早くなりたかったのはいいけれど、
授かった可愛いは、それでよかったんだ。
可愛いを打ち消すことが大人になることではない。
大人とは、広ーく、深ーく、大きーく受け入れられることなのかなと思う。
子どもと大人と呼び分けることもなく受け入れられるといいなと、今思う。
時が経てば、肉体は変化するもの。
内面も、変わっていく。
身も、見方も、捉え方も、変わる。
『時』も授かりもの。この時代にここで生まれた自分。
『小さい時』の可愛いは、時とともに大きくなることで小さくなっていく。
赤ちゃんが、観るものを可愛いと感じるようになる時には、赤ちゃんより大きく育っている。
ぎゅーってハグしたくなる愛おしさ。可愛さ。
赤ちゃんが着る服も靴下も可愛い。布団も可愛い。
赤ちゃんがいるとそのまわりも一緒に可愛く見えてくる。
みんな可愛いではボキャブラリーが少ない話。
『可愛いという感覚』
これも、授かりもの。授からなければ、可愛いという認識出来ない。
『可愛いという感動』が、そこになければ、それをキャッチ出来ない。
というか、響かない。そして感動しない。
湧いた感動に、他と区別する呼び名が、『可愛い』。
赤ちゃんは、お母さんの感動を、自分の感動にする。
自分の感動にする、というか、共鳴してしまう。
よく頻繁に、響いた感動が自分のものになっていく。
心の感動と、可愛いという声の響きが、リンクする、
声の響きが、シチュエーションとリンクする。
自分の声の響きが、お母さんの感動を呼ぶ。
お母さんの感動が、自分の感動になり、
自分が響かす声、声を出すこと、手を動かすこと、お母さんの顔の動きを観てたら、お母さんが感動する。
お母さんの感動が自分の感動になる。
お母さんが見つめて感動して笑ってる。
同時に、自分がお母さんを見つめて感動して笑ってる。
感動と言葉と響きと動きと感触とシチュエーションと繰り返しと理解と認識と。
自分は可愛いがられている。お母さんに。
自分は可愛い。
それは、共鳴してるから、
お母さんは可愛いがられてる。私に。
お母さんは可愛い。
感動の共鳴は、お母さんのお腹の中にいる時から始まっている。
お母さんは、赤ちゃんを思うと、赤ちゃんの頃直接たっぷりもらっていた感動を、呼び起こされ、心が響いてしまう。
お母さんは赤ちゃんを心から体も動きも全てを愛してしまう。
赤ちゃんもお母さんを心から体も動きも全てを愛してしまう。
そういうこと。
世の中、様々な境遇の人がいる。
赤ちゃんのそばに、いるのがお母さんじゃなかった人もいると思う。
ただ、誰かがそばにいてくれた。
その誰かは、赤ちゃんを愛して愛されていた。
そう私は思う。
忘れてしまいがちだけど、
愛で生きていた。愛で生きている。
忘れてしまっても。歳を重ねても。間違えても。
忘れてしまいがちなだけ。
今自分が可愛いのかという問いの答えを出すのに苦労しようとも。
忘れがちなんだ。
教科書読んでも忘れがち。
でもきっと、心は響いてしまうものなんだ。
、、、、、、、、、
よくもここまで読んでくださいました。
ありがとうございます😊