広島市のお好み焼誕生秘話の誤解について
広島市におけるお好み焼の誕生秘話として、次のような話を聞いたことはないだろうか。
実はこの話をファクトベースで検証すると、完全に誤りであることがわかっている。
このことについては「熱狂のお好み焼」に書いたつもりになっていたけれど、精読しないとわかりにくいので(すみません💦)誤った認識が消えていないことに気づいた。
これはマズいと思ったので、明確に書き残しておくことにする。
食文化史では非常によくあることだが、感情に訴えてスッと頭に入る話ほど作り話であり、真実は往々にしてややこしく複雑。
この話も少しややこしいので、真実を知りたい人だけ読んでほしい。
まず、戦争で夫を亡くした未亡人が…の下りだが、広島市の場合、原爆が投下されたという他地域にはない特徴がある。
どこも空襲は受けたが、原爆は無差別かつ大量で逃げる暇もなかった。
そこで被爆した人たちはどういう属性だったのか。
残念ながら広島市のデータは見つからなかったが、同じく原爆が投下された長崎市のデータを引用する。
広島市と長崎市の傾向は全く同じはずだ。
目を惹く特徴は、20歳から30歳の間で、男性の被爆者が少なく、それに比べて女性の被爆者がとても多いということだ。
20歳以下や35歳以上では男性と女性の被爆者の数に大きな差異はない。
なぜそうなったのか。
原爆は戦地ではなく生活地に投下されたからだ。
20歳から30歳の男性は、戦地で戦っていた。
そこへ原爆が落ちたなら、この世代の男性が被爆しただろう。
しかし、原爆は生活地に落とされた。
だから被爆したのは子供、女性、老人だったのだ。
戦後、夫を亡くした女性は全国にたくさんいただろう。
皆、そんな中で生きることに必死だったはず。
しかし、被爆地広島市においては、その女性が原爆で大量に亡くなっていただのだ。
つまり、広島市や長崎市以外の地域であれば、戦争で夫を亡くした女性が…という話も成り立つが、広島市の場合、その女性たちが原爆で亡くなっている。
つまり、負の相関があるのだ。
ただ、広島市の女性が原爆で全員亡くなったわけではないので、生き残った女性たちがお好み焼店を始めた可能性はないか。
実はそれに近い話がある。
広島市内で記録に残っている限りでは最も古いお好み焼店、昭和23年創業の「天六(閉店)」の店主、田辺ツルさんは内モンゴルから夫の故郷である広島県山県郡北広島町に引き揚げたが、仕事がないので広島駅前のヤミ市に来て、ヤミ煙草を売っていた。
当然、違法なので警察に捕まることが多く、近所の花屋から「お好み焼をしてはどうか?」と勧められた。
それで貯めた60万円で広島市南区大須賀町にお好み焼店を開業したと中国新聞のインタビューに答えている。
他にも似たような話をヒアリングしている。
戦後にお好み焼で生活を支えてくれた母の跡を娘が継いでいる店がいくつかあるのだ。
しかし、それらの店は残念ながら、戦後の広島市のお好み焼を盛り上げた立役者ではない。
広島市のお好み焼を盛り上げたのは、繁華街のすぐ隣にあった新天地公園の屋台群である。
この屋台の中から現在の広島市の主流となった焼き方、広島スタンダードスタイルを考案した「みっちゃん」が生まれ、この屋台群がその後「お好み村」になり、広島駅ビル内のお好み焼店になる。
ではこれらの屋台は、戦争で夫を亡くした女性たちが切り盛りしていたのだろうか。
「お好み村」の初代村長、古田正三郎さんは中国新聞の取材で次のように答えている。
「関東や関西からあぶれてきたような人、九州のやくざっぽい人もおったね。とにかく、今では覚えとらんぐらいいろいろな人がおった」
なぜ全国からあぶれ者が広島市に集まってきたのか。
これは上記の田辺ツルさんと同じ動機で、広島市に来れば仕事があったからだ。
なぜ仕事があったのかというと、昭和24年(1949年)に広島平和記念都市建設法が成立し、復興予算が回り始めたためだ。
当時はまだ重機がなく、壊滅した都市を再生させるには大量の人足が必要。
そして復興工事に携わる人たちの生活を支えるための商売も必要になる。
当時はまだ、コンビニはおろか、スーパーマーケットすらなかったのだ。
だから、日本中からあぶれ者が広島市にやってきて、様々な商売をやった。
その中で人気商売だったのが、お好み焼の屋台だった。
実は、新天地公園で屋台をやっていた人たちの多くは県外の人たちだったことがわかっている。
つまり、広島市のお好み焼を盛り上げたのは、戦争で夫を亡くした女性たちではなく、県外から広島市に来て、商売で一旗揚げようとした人たちだったのだ。
また焼け跡から鉄板を拾って…というのは完全に無理がある。
広島市において最も歴史と伝統がある猿猴橋の立派な欄干ですら金属類回収令で供出させられたのだ。
鍋釜すら供出した時代に、焼け跡に都合良く鉄板が転がっているはずがない。
ただし、戦後に鉄板は入手できた。
焼け跡から拾うのではなく、田辺ツルさんが語ったように購入したのだ。
広島市は旧陸軍の物資調達地だったので、国民から集めた金属を溶かして武器などに転換していた。
戦争が終わるとそれらが払い下げられたので、鉄板そのものは流通していたのだ。
戦後から伝わったという鉄板を使っている店がいくつかあり、観察させてもらったが、金属の組成や鋳造が良くないものもあった。
しかし、そんな鉄板でもバラック小屋と同じくらいの値段だったとのこと。
そんな状況なので、都合良く鉄板が拾えるはずはないのだ。
店の軒先で作り始めたという部分については、確かにそういう店が郊外に存在していたが、それは広島市に限らず、呉市にも、尾道市にも、三原市にも、福山市にも同じようにあった。
広島市においてその後、お好み焼が盛り上がるきっかけを作ったのは、先に述べたとおり新天地公園の屋台群である。
そのため、重大なミスリードと指摘するべきだろう。
最後は女性の愛称である○○ちゃんという屋号を掲げたという部分だ。
昭和40年代の職業別電話帳を調べると、その他のお好み焼タウンである東京、大阪、神戸に比べ、広島には○○ちゃんという屋号が明らかに多かった。
つまり、広島市における大きな特徴であることは間違いない。
では最初に愛称を屋号にしたのは誰だったか。
福井県からやって来て、新天地公園でアイスクリームを出していた中村善二郎さんの屋台「善さん(閉店)」だ。
その後、隣のお好み焼が人気なのを見て、お好み焼に業態転換した。
そしてどうやらこの「善さん」という愛称を屋号にしたやり方が、上手くいったようなのだ。
他のお好み焼屋台は「源蔵」「桃太郎」「富士」「光」「三吉」など、昔ながらの格調高い屋号だったので、客が屋号を覚ず、おいしいお好み焼を出しても、次に来た時は「どこの屋台だっけ?」となっていたようだ。
ところが屋号が店主の愛称と同じ善さんだけは覚えてもらえた。
これを見て「美笠屋」の店主、井畝井三男さんの長男、井畝満夫さんが屋号を自らの愛称に変更した。
それが「みっちゃん」だ。
これが愛称を屋号にした二例目だが、最初の例が中村善二郎さん、次が井畝満夫さんで、二人とも男性なのだ
三例目は古田正三郎さんの屋台「ちいちゃん」だ。
ここも店主は男性だが、長女チヅエさんの名前を取って「ちいちゃん」とした。
ここでやっと店主ではないけれど、女性の愛称が出てくる。
この新天地公園の屋台群では、店主は男性だが、実際に店を切り盛りするのは奥様または娘で、店主である男性はフラフラしていたという証言が多い。
しかし、今よりもずっと家父長制な社会だったので、女性が男性を差し置いて自らの愛称を屋号にすることは考えられなかった。
実際、その後の○○ちゃんも、実質的に店を切り盛りしている女性ではなく、夫や子供の愛称を付けている。
この時代に、女性店主の愛称である○○ちゃんを屋号にしたというケースは見つかっていない。
これがファクトベースでの検証である。
最初に述べた誕生物語が事実無根であるとわかっていただけただろうか。
ややこしくて複雑だが、歴史の真実とはそういうものだ。
こんな面倒臭い話をしても誰も聞いてくれないだろうが、あのよく知られる誕生秘話が誤りであることだけ覚えていただければ幸いである。
広島市のソウルフードだといいながら、誤った誕生秘話を発信し続けるのはさすがにマズいからね。
追記:
中国新聞の桑島記者が書かれた記事によると、この誕生秘話は「自治体や旅行会社がお好み焼きを「復興の象徴」として広める中で生まれた可能性がある」とのこと。
なるほど、事実とは異なるとわかった上で、感情に訴えるほうが伝わりやすいと判断したのかもしれない。
今の感覚だと「作り話だとバレた時に困るので止めよう」となるが、当時は似たような作り話がまん延していたので誰も気にしなかったのだろう。
そうであればマーケット感覚に優れていたという判断もできる。
このことから、仕掛人はあの方では?と予想できたが、広島市のお好み焼を盛り上げた功労者でもある。
犯人探しはこの辺りで止めておこう。