私たちには怒る権利がある


そういえば、ここ最近で感情を爆発させた記憶がない。イライラしたり、政治家の発言にゲンナリしたり。腹が立つことはあるけれど、だからと言って感情的に怒るといったことはしなくなった。最後に怒ったのはいつだっただろうか。


■座談会での発言
  今月に旗揚げされるwebメディアの企画で座談会を行なっていた時に、「私たちは怒ってもいい」とある先輩は言った。「社会に対して怒ってもいい、時には暴挙が起こっても、怒りを露わにしたらいい」そう彼は言った。理性的な論が重視され、140字で社会が語られ、議論が論破合戦になる中で、理性ではなく感情で動いてもいいのだ、と。

確かに。

  様々なコメンテーターが公共の電波やSNSを利用して論破合戦を行うせいで物事の本質を見失っていた。自分もロジカルな意見を引っ提げて社会的な話し合いに参加しなければならないと強く思っていた。自身の怒りより、折衷案。感情より理性。感情的だと決めつけられるフェミニストだからこそ、理性的に、と。しかし、そもそも社会に対する意見表明の本質は、私たちの生きている中で感じる怒りや、強い憤りなのだ。その感情から生まれる変革欲求に小手先の理論など必要ない。


「怒り」は人間の中にある

最も大きなエネルギーであり、

「怒り」こそが、社会を変革しうる。



■「怒り」のエネルギーと疲弊し切った日本社会
 怒ることはかなりのエネルギーを有する。事実、怒った後に得られるのは爽快感ではなく疲弊感であると思う。最近「怒られるうちが華」だと心の底から思うようになった。今までなら怒られることにひどい嫌悪感を抱いていたのに、なぜかそう思ったのである。

それはきっと「怒る」ということが生きている中で相当エネルギーを有することであると、短い人生の中で感じ、本当に関心や信頼があるものにしか「怒り」をぶつけようと思えなくなっていると確信したからである。歳を重ねるにつれて私たちは自分なりの省エネ術を身につけ上手く生きるようになる。別にこれが悪いとは思わない。現に、成長するにつれて感情のコントロールが上手くなったし、自分にとって必要なものとそうでないものの選別が出来るようになった。そして、滅多に怒らなくなった。ーまるで「怒り」の感情を忘れたかのように。


 私たちが怒らなくなった背景には日本と世界の現状が少なからず関与していると思う。生まれてから一度も好景気を経験していない私たちは、輝いていた時代も世界も知らない。ずっと不景気で、首相が何度変わろうとも大きな変化は見られない。社会に期待するなんてもってのほかで、どうこの社会を生き抜くかということに必死である。必死に資格の勉強をして、安定した収入と福利厚生のいい企業を探す。無人島になんか行かなくってもサバイバルだ。

社会に不満しかないけれど、怒ったところで変わらない。じゃあ、黙ってこの状況を見ている方が楽だ。みんなが疑問を抱いている就活の波に乗る方が何倍も楽だ。


2021年を生きる私たちにとって「怒る」ことは、どんなことよりも難しい。

そんなエネルギーはもう私たちの中には残っていない。


しかし、一体いつまでこの状況を指を咥え、黙って見ているのか。



怒ることはしんどいから、

怒っても変わらないから、と言って


「怒り」を放棄するということは、

社会や自分の存在に対する

責任放棄ではないか。



■分かり合えないこともある
 もちろん、怒りが全てを解決するための手段ではない。怒りに身を任せればやがて争いが起き、傷付く人が出てくる可能性もある。しかし、自身の中にある「怒り」をおろそかにすることはこの時代を生きる中ではさらに自身の首を絞めかねないとも思うのである。自身の怒りを沈黙に変えることは、そのあとの私たちをより一層苦しめるのではないだろうか。世の中では、譲り合うことが正義でもないし、分かり合えないことだってある。私たちの気持ちが頭の固いおじさんに通ずるなんて夢にも思っていない。別に譲り合わなくてもいいのだ、分かり合うことが正解ではない。私たちの正解は、自分たちが生きやすい世界を創ることなのだから。


だから私は今日も、怒る。


2021.05.03

Kirara Okamoto


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