[十二]時間の支配・遡行について

目の前の木の実が落ちたとして、それは時計の針が示した数字とは何ら因果関係が無い。
時間が私を支配しているわけなどあるはずがなく、時間は人工物であり、人間が時間を支配していることを忘れてはならないと私は思う。

多くの人間が同様の基準で認識する時間という概念はあらゆることを便利に、物事を円滑に進めることができると思う。しかし、その存在を知りもしない人間がいれば、その数字は全くもってどうでもよいもの。

時間を遡るとはどういったことか考えることがあるが、時計が逆方向に進んだり、映像が逆再生されるといったことはそれに該当しないように感じる。
後者においては記録されたデータをどちら側から再生するかといっただけだし、昨今の音楽制作ツールでは波形の逆再生という便利な機能もボタン一つで可能だが、波形が反転するだけなのでこれもデータをどちら側から再生するかだろう。

そもそも時間自体が人工的に作られたもののため、一定の方向へ数字が変化していくことしか考慮されていない仕組みだとすれば、それを逆転させるために策を講じても仕組みを変えなければ無理な話だし、それが出来たとして、”それを知らない者=この世界”にとっては時間自体がどうでもよい物なのでなんの意味もないだろう。

そのため、時間を遡行したいと考えた時、その奥にあるもっと具体的なイメージを探る必要がある。例えば”子供の頃の自分に戻りたい”、”亡くなってしまった大切な人にもう一度会いたい”、”あの景色がもう一度見たい”、など。
それらを叶えようとしたとき、人工物である「時間を逆方向へ進める」という行為は、目的に対して因果関係がないと私は思う。冒頭に述べた木の実の落ちた時の話と同じように。

例えば、現時点で時間というものを認識している全ての人間が共通の認識をもって「今から1時間時計の針を進める」と実行したとすれば、記録上、歴史上、その1時間は空白となる。現に毎月を構成する日数が異なっているし、少なくとも私の住む日本に11/31という日付は存在しない。

このように、完全に人間の支配下にある時間をいくら操作したところで何の意味もないと私は考える。(ここでいう意味というのは先述した”子供の頃の自分に戻りたい”等が目的の場合である)

時間を遡りたいと考えた時、いや、”子供の頃の自分に戻りたい”と考えた時、一番初めに行うべきことは時間という考えを私の中から捨てることだと私は思う。


最後になるが、私自身も”子供の頃の自分に戻りたい”と思ったことがある。
それは身体的にという意味ではなく、あの頃の私は世界をどのように見ていたかを今の私の記憶をもって味わいたいという願望だ。
身体的に子供になりたいのであれば手術すればよいし、小学生のような生活をしたいのであれば、一歩間違えれば不審者だが、公園で小学生と遊び、それを主軸に生活すればよい。
あの頃私は時間という概念を忘れて、遊びに呆けたり、やりたいようにやっている瞬間が沢山あって、それ故に芽生えた感情が沢山あることを思い出した。いつの間にか私は私達が作ったはずの時間に支配され、私を失い、あの頃の私と今の私が分離されてしまっていたかもしれない。
少なくとも今の私は、あの頃の私と共存しているし、まったく同じ私として認識している。その感覚は音楽にも多大な影響を及ぼしている。

私は時間の遡行を実現したかはわからないが、時間の概念を捨てる感覚を覚えることには成功したと思っている。その証明は音楽として形を成すのか、そのあたりは不明瞭だが。

【補足】
この場で私の音楽を公開するかどうかについては未定だ。
理由としては、記事と音楽を結びつけて公開する必要があるか答えが出ていないためだが、私の中で一定の結論がでたら公開するかもしれない。

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