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故郷に寄せる情熱の季節

JRの汽笛の音が、人々に故郷への思いを掻き立てる

私は京都の下京区というところに住んでいる。部屋のあるマンションの前が幹線道路の一つなので、本来は静かであるべき京都なのに、走る車やトラックの音が喧しい。ところが、夕方前のある時間、おそらく流通か何かの加減なのか、束の間少し静かな時間が存在する。その静かな時間を持っていたように、遠くにJRの汽笛の音が悲しげに聴こえてくることがある。本来は京都市内でJRの汽笛が鳴るところは多くなく、走るタクシーや営業車、トラックの音にかき消されてこの下京区内で汽笛が聞こえるのは珍しい。夜になればもっと頻繁に汽笛の音が聞こえそうだが、夜間は幹線道路を疾走する車両が多くなり、騒音がひどくてあまり汽笛の音を耳にすることはない。
私の住んでいるところから推し測れば、たまに聞こえる汽笛は、JRの山陰本線を走る列車の音に違いない。黄昏時に汽笛を聞くと、人々はなぜか故郷への思いを掻き立てられるそうだが、私には実質的に故郷がない。もちろん生まれたところはあるが、そこは家族の戦時中の疎開先の延長のようにしばらく滞在した場所で、特別に深い愛着があるわけではない。だから、家族が戦前に住んでいて、戦後疎開先から戻った同じ場所がいわゆる故郷に匹敵する場所になるが、大都会なのでそこには故郷としての温かさはあまりなかった。それに加えて私が転勤を繰り返す人生を送ったので、住むほどに郷土愛が育つという経験はほとんどなかった。

私が知る「郷土愛」の原型は、友人が郷土に寄せる情熱の在り方

だから私の「郷土愛」の認識の原型になっているのは、親しい友人の郷土に寄せる情熱の在り方だった。私の友人の中には、生活の相当な部分を故郷への愛着に傾ける人が何人かいる。そして、その人の故郷への愛着が露わになるタイミングの一つは全国高校野球大会だ。四国出身の友人の出身校は夏の甲子園で何度か優勝し、また毎年甲子園出場の有力候補となっている。私自身は彼らと同郷ではないし、その高校とは全く無関係で、その友人を通して眺めている傍観者にすぎないが、この季節になると友人やその仲間たちは急に挙動不審なほどに動き回るようになる。つまりまずは母校が甲子園に出るか出ないか、その応援で必死になるのだ。NHKや京都の放送局で故郷での試合が放映されることはないので、友人の仲間たちはにわかネットワークを構築し、メールで詳細な試合の経過を互いに連絡しあうのだ。たまたまそうした状況にあった友人が周囲にいたので、彼らの熱意のあり方を知ったのだが、おそらくこれは全国各地で同じようなことが行われているのだろう。

実は「甲子園」も「阿波踊り」も私は嫌いではない

ところが、一旦彼らの母校の甲子園出場が決まると、その名門校OBたちの仕事は一気には佳境に入る。何があるかと言えば、母校の甲子園出場に際しての応援体制の準備、さらに郷土から来る地元応援団の接待、宿泊のための旅館やホテルの確保などがあり、何よりもこうした膨大な作業と必要な経費を賄うための資金を集めなくてはならない。私はあくまで傍観者なので、詳しい内情は知らないが、おそらく選挙資金や宗教団体へのお布施集めに似た熱狂的なエネルギーが発揮されたのだと思う。無関係な人から見ると、理解しがたい部分もあるかとは思うが、こうした郷土愛に向けられた情熱は、時間とともに薄れがちな人間のきずなを再構築する上でも価値があるような気がする。こうしたエネルギーの発露は、友人の故郷の風物詩でもある「阿波踊り」にもうかがえて、私は嫌いじゃない。

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