歌川広重 昌平坂聖堂神田川
京都には歴史、文化という商品が無限に眠っている
京都は、東京や大阪から見るとずいぶん値打ちのある街だ。なぜかと言えば、世の中には京都にしかないものが多いので、どうしてもそれが必要な場合は京都で手に入れるしかない。例えば由緒ある神社仏閣も、国宝や重要文化財もその多くが京都にある。そもそもいくら京都にしかないといっても、まさか国宝級の神社仏閣を東京や大阪に運ぶこともできない。だから京都にしかないもので、現実的に京都で手に入れるしかないものとしては、芸術品や工芸品、伝統文化財といったようなものになる。私が京都で音楽関係の仕事をしていた頃、私の親しい人が東京の新宿副都心で古美術ギャラリーの店を開いていた。その人は、親代々の美術商といった格式の立場の人物ではなく、古き皮袋に新しき酒を注ぐといった感じで、何でも新しいビジネスやブームメントに組み立て直す名人だった。
その人から突然、新しい仕事への協力を依頼された。私が音楽マネージメントの仕事をしてることも知っていて、要は私が京都に住んでいて、しかもアートにも少し目が利くので古美術店や古書店に眠っている浮世絵の良品を発掘して欲しいということだった。私にとっては、音楽マネージメントという自分の仕事が第一なので、アルバイトに時間が取れないということも説明して、やんわりと断ったつもりだったが、その人は私の意見など聞く必要がないといった風情だった。彼は私が仕事の合間に寺町の古美術店や古書店を覗いていることも知っていて、その暇つぶし程度の手間でいいから手伝ってくれと、いつもと同じように、無理やり仕事を押し付けられてしまった。
寺町通り辺りの古書店で隠れた浮世絵の名品を発掘
どういう仕事かといえば、私が暇つぶしに楽しんでいる京都の古美術店、古書店巡りを利用して、隠れている浮世絵の名品を発掘してくれということだ。つまり二人の最小限の約束事としては、友人が毎月100万円私に送金して、私はその中から20万円をコミッションとして受け取り、その差額の80万円で、できるだけ見込みのありそうな浮世絵を買い集めるということだった。この話は、昭和75年頃の話なので、毎月20万円の副収入はそれなりに魅力だった。たいした仕事とは思えなかったので、友人の仕事を引き受けることにしたが、当然仕事としてのスキルが問われる。古美術店、古書店を回るとたくさんの浮世絵と出遭える。ただ、それらの作品の中からどういう作品を選ぶかということが重要になる。分かり易く言えば買った価格よりはるかに高い価格で売れる作品がいいに決まっている。だから何を見るかといえば、著名な作品だが、少し難点がある、つまり北斎や写楽の作品だが、やや日焼けしていたり、コンディションに染みや虫食いなどがないかをチェックする。あるいは、有名な作者の浮世絵だが一目ではその作者の作品だと見えないといった場合も、同じくチェックの対象となる。さらには、作家としての力量は超一流だがまだそのことが世間で十分理解されていない場合なども点検の対象となる。その作品がいいということではなく、そういう作品は安く買えて金になるということだった。
手元に残った一枚の浮世絵
私は、アルバイトを始める前に、国際的にも知られた浮世絵の総覧図鑑を購入していた。浮世絵は何度も版を改めるので、同じ作家でもどの版元から発売され第何版かを知ることは欠かせない作業だった。この図鑑には版ごとの微妙なビジュアル要素の違いが克明に表示されていて、いかにアルバイトでも仕事にした以上、それなりに才覚と時間と手間がいる。そういう意味では楽しい仕事とも言え、技量も日に日に成長する。
友人との仕事は順調な成績を残し、仕事の規模もかなり拡大した。しかし、この仕事はやがて、構造上の問題をもたらすこととなった。東京の私のパートナーがその成果を吹聴するところもあって、同様の趣向でビジネスを行う人が増えてきたのだった。この当時、浮世絵の日焼けを薬剤によって軽減させる技術が向上し、また染みの除去や繊維の破綻を修正する技術も向上していた。つまり私たちが行ったビジネスは、未発掘の作品を見つけ出すということではなく、実際は何らかの理由で傷ついた作品を修繕するビジネスともいえる。そこで私たちのビジネスを傍で見ていた人の中から、私たちと同様の仕事をする人が、東京の神田あたりで後を追うように増えてきたのだ。それが直接の理由ではないと思うが、私の友人もこの仕事にも飽きてきたのでそろそろ仕事じまいをしようかといってきた。
そんなわけで私のこの奇妙なアルバイトは静かに予告もなく終わることになったのだが、このアルバイトの最後の仕事は、無名の作家の作品のように周りと同じような価格で無造作に店頭に置かれていた歌川広重の作品の買い付けだった。それは、一つの傷も、一つの染みも、一つの焼けもない「昌平坂聖堂神田川」という作品だった。
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