羊のように生きる
あなたは「羊みたい」と言われたらうれしいかな?
キリスト教はじめ、宗教的な説話には「羊」がしばしば登場する。私は宗教には詳しくないので、いろんな宗教において「羊」がその宗教の中でどういう位置づけをされているのか知らないが、漠然としたイメージでは、「大衆」「従順な者」「衆愚」「平和な存在」「弱者」などを暗示しているといったところだと思う。私がかつて東京の葛飾区に住んでいた頃、家からニ〇分くらい歩いたところに住宅街としては少し大き目の公園があって、その公園の一画に小さな動物園があった。動物園と言っても、たしか檻や囲いの中に、猿とモルモット、豚、それに「山羊」などがいる程度で、また園内には動物と触れ合うためのちょっとしたコーナーがあって、そこでは子供たちが兎やモルモットを膝に乗せて抱いたり撫ぜたりすることができる。さらにこの動物園にはポニー種の馬が何頭か飼育されていて、子供たちを乗せて小さな動物園に設けられたパドックみたいなところをゆっくり回っていた。
「羊」も嫌いではないが、特異な「山羊」の存在感が好き
私が気に入ったのはどういうわけか「山羊」で、多分、この動物園には四、五頭はいたと思う。それぞれに名前が付けられていて、私が覚えているのは「チョコレート」と「ミルク」の二頭だけだ。私が散歩がてらに一週間に一度ほど「山羊」の囲いを訪問して、「山羊」たちの頭や胴体を撫ぜるようにしていると、「山羊たち」はやがて私を認識するようになった。それからは、私が「山羊」の囲いに近寄ると「山羊たち」は目ざとく私を見つけて、私の方に寄ってくるようになった。「山羊」の頭や背中を撫ぜようとすると、「山羊」は自分から頭を私の手の方に寄せてくる。そんなことで私は、思いもしなかった形で「山羊」を子細に観察する機会が持つことができたのだった。その時に私は初めて「山羊」の毛が束子(たわし)の毛よりも固いことを知ったし、ヒズメの様子も見た。しかし何よりも驚いたのは「山羊」の眼の瞳のことだった。「山羊」の眼の瞳が丸くなく、縦の紡錘形でもなく、つまり横一線の形になっていることだった。
世の中に従順な生き方を選ぶのか
確固とした主体性をもってわが道を行くのか
「山羊」の瞳や眼を見ていると、たしかに素直でモフモフしたかわいい「羊」に近い存在ではなく、いっぱしの存在感を持った腹の座った面構えのように思えてきて、それ以降私は何とはなしに「山羊」に一目置くようになったような気がする。たしかホラー映画で見る悪魔の姿もやはり、「山羊」と人間の姿が重なっている。これは私の個人的な意見だが、人は「山羊」の中に「羊」にはない獣性を感じていたのではないかと思う。「羊」と「山羊」は姿こそ似通ったところがあるが、のどかな草原に棲む「羊」と、屹立(きつりつ)した山々の天を刺すような鋭い頂を持つ山岳地帯に棲む「山羊」の違いか、人は「羊」に従順さを、「山羊」には近寄りがたい主体性を感じたのではないだろうか。
そしてまた、私に「羊」のように世の中に従順な生き方を選ぶのか、あるいは「山羊」のように、確固とした主体性をもってわが道を歩む人生を選ぶのかと聞かれれば、今の世の中で「山羊」のように生きたいと言う勇気はない。しかし同時に、主体性を失くして何が人生だと思う気持ちはいつまでも捨てられず、つまるところ、❝おとなしい「山羊」のように主体的に従順な生き方を選びたい❞と答える他はないのだ。