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近鉄パールスのこと

初めて知った球団名


私は小学校3年の頃、大阪の梅田から近鉄南大阪線沿線に引っ越すこととなった。ほとんど梅田、淀屋橋、肥後橋辺りを遊び場にしていたので、かなり文化的環境にはギャップを感じた。この近鉄南大阪線は、私が子供なので最低運賃は5円で、大阪の地下鉄はいくらだったか忘れたが、その時は電車賃が安いと感動した記憶がある。そのころ、近鉄南大阪線ではラビットカーという新鋭の車両が登場したのだ。それが登場するまで、近鉄南大阪線の普通車両のドアは乗客が自分で開けるタイプもあったので、全自動の最新鋭のラビットカーはすごく目立った存在だったような気がする。

バッファローで強くなったのだろうか


ところで、私は初めて近鉄南大阪線の沿線の人になったのだが、意外にも電車と野球チームの活動が連携しているので、知りたいと思った訳ではないが、近鉄が保有しているプロ野球球団の名前が近鉄パールスということも初めて知った。しばらく住んでいると同じ路線の藤井寺という駅の近くに藤井寺球場という近鉄の球場もあった。しかし確かナイター設備がなく、いつ見ても観客で満員ということがなく、周りの大人に聞いてみると、近鉄パールスが試合をすることはめったになくて、実際はほとんどの試合は、日生球場で開催されているということだった。そして小学3年から4年へと、私の年齢が加わるにつれて、もともと近鉄のファンでもなかったので、何か近鉄パールスというのが軟弱な名前のように思えてきて、やがて少なかった関心もほとんどなくなっていった。確かに近鉄には伊勢や賢島など、真珠の養殖場などにも路線を伸ばしていて、パールスという名前に意味がないわけではない。しかしわんぱく世代の私たちにとっては何かしっくりこないところがあったのだった。ところが1959年に、元巨人の選手で千葉茂という監督が起用されるようになり、彼のあだ名が「猛牛」だったので、そのタイミングで球団も近鉄バッファローズという名前にしたので、パールズよりは幾分力強いイメージのチームになった。

どこのチームも同じようなものだが、このころ球団の買収も盛んで、チーム名もころころと変わった。そして最終的に近鉄パールスは、オリックス・バッファローズになった。私は近鉄パールズの頃の出会いが地味だったので、近鉄という会社が金持ちだとは思えなかった。しかし先ごろといっても、だいぶ前だが、高さ300メートルの「あべのハルカス」を建築したことから、近鉄が相当に隠れ金持ちの会社だったことを知ったのだ。



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