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草野球の「審判」としての束の間の人生

真面目に漫画家になる修業を始めた高校3年の春

高校を卒業してからの3年間、私は就職もせず大学受験もせず「漫画家」になろうとして、私独自のスタイルを創るため、必死に漫画の習作に励んでいた時代があった。「ガロ」という雑誌や、「白土三平」「水木しげる」といった私が好きだった作家たちに直接私の作品を送っていた。一応は、作品を見てもらって評価して欲しいという建前だが、雑誌社や作家から返事が来ることはまずなかった。それでも何かつながりを残したような実体のない希望が生まれたような気がしたものだった。家族や周囲の人からの切望を無視して私が大学に行かなかったのは、漫画が好きだということもあったのだが、同時にその頃、大学紛争が激化していたので、一流の大学に入れたらそのまま大企業に入って…といった時流に逆らわずに生きるジャパン・ドリームのストーリーが描きにくいときでもあった。そこで私としては、潜在的にはこのタガが緩んだ時代を利用して、一気に普通の人生からドロップアウトしたかったのだと思う。

「ガロ」や「白土三平」「水木しげる」の世界を目指して

漫画を取り巻く当時の状況としては、月刊と週刊の少年漫画雑誌はあったのだが、私はどう道を間違えたのか、そのメジャーの方向ではなく「ガロ」や「白土三平」「水木しげる」といった裏通り系の漫画の方に進んでいたのだった。また裏通り系の漫画雑誌の他に、普通の大人の漫画雑誌も1冊か2冊あって、そこでは漫画の読者応募というのは少なかったが、「四コマ漫画」「川柳」「パーティジョーク」など雑多な読者応募のコーナーがあった。私はいずれかのコーナーで毎週のように入賞していて、高校卒業した頃の年齢にしてみれば、ちょっとした小遣いになっていた。無計画を絵に描いたような私の生き方だが、不思議なことに少しは経済観念もあって、雑誌へ投稿の他に私自身が大学生でもないのに、高校三年生の大学受験の家庭教師のアルバイトもちゃっかり確保していた。

なぜ私が草野球の審判になったのか

そんなことで、日がな一日漫画を描いていても、漫画を描くのに疲れたら、近くを散歩したり、気に入った喫茶店でコーヒーを飲むことも自由にできたのだ。それなりに自由な毎日だったので、ある日、私が散歩の足を少し延ばして、大きな都市公園を訪れた。そこには公式の野球場の他に、普通の球場より心持ち小さな練習用の野球場が二つあった。そこでは小学生や中学生、さらには大人たちが野球の試合をしていた。考えてみると今日は日曜日で、おそらくこの球場群は、この地域での草野球の貴重なメッカの様な機能を担っているのだろう。
私は特別に草野球の観戦に趣味があるわけではないのだが、たまたま観戦していた試合の一方のチームに私の住んでいる町の地名が付いていたので、大した意味もなくしばらく試合の成り行きを眺めていた。このチームは、私の住んでいる町内の「氷屋」の従業員がチームのメンバーのようで、メンバーの顔を目で追ってみると、わが家に氷を運んでくれている若いメンバーもいた。理由なき連帯のようなことで、しばらく試合を観戦していたが、義理を果たしたとばかりに、そっと観客席から離れようとしていた時、おそらく隣の球場で試合をしているチームの監督と思われる中年のオジサンがやってきた。「兄ちゃん!この試合の審判をやってた奴が、仕事で会社に戻らんならんということなったんで、この後この試合の審判をやってくれんかなあ~!」と言ってきた。どうやらこれはボランティアの審判ではなくて、多くはないが1日に付き5000円の謝礼が出るという。

3年間のエアー・ポケットからの脱出が私の人生への出発点

突然そんな提案を受けた私は意外に焦って、出まかせにすぎないのだが、歯医者に通う必要があるのでとか、審判するのに消極的で、審判ができないという理由を口にしていた。ところが先方の人が、「少なくとも毎日2、3試合は必ずあるし、試合の予定は彼がちゃんと段取りをつけてる」と、チーム名が胸に書かれた赤いTシャツを着ている若い男を指さした。そんな経過で何となく話は実務的な方向に向かって動き始め、気が付くと私は翌日からこの公園の野球の試合の非公式審判として参加させられることになった。

結局、私の草野球の審判は、この公園の整備計画が動き始め、工事のために野球場が閉鎖されるまでの1年半にわたって続けられた。この非公式な公園の野球場管理は、誰がしているのか審判を辞めた今も知らないが、草野球で唯一お金をもらっていたのは私だけだったような気がする。しかし私に取ってこの期間は、最終的には物にならなかったというものの、私の人生で一番脂ののった状態で漫画に没頭できた貴重な日々だった。そのあと私は普通の受験生というか浪人に戻って、翌年には一応大学に進むことになった。後になって思い出せば、公園での審判を含めたあの3年近くは、何だったのだろうかを思う。きっと何とも名状しがたい、人生のエアーポケットのような瞬間があって、私はそのエアー・ポケットに3年近く囚われていたに違いない。それを越えた時にやっと私の本当の生活が始まったのだと思うのだった。



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