最先端の感性は年齢と無縁な処にある
本当に高齢者は保守的で、若者は革新的なのか
世の中には、年寄りは「保守的」で、若い人は「革新的」だと信じている人は意外に多いが、果たしてそれは本当だろうか。私は若い頃からそうした意見にはまったく同意できなかった。というのも私が20代の頃、仕事の上で最初に私を理解してくれて、応援してくれた人の多くが年配の人だった。私が30代の頃、自分で大きなリスクを背負ってまで私の仕事を支えてくれた人は、当時85歳の人だった。そして私がたどり着いた突飛なアイデアを真っ先に受け入れてくれたのも、やっぱり老境の人だった。確かに世の中に頑固な老人は少なくないが、「頑固」と「保守的」は関係がない。とはいえ、世間的な常識を否定してそのことを人に説明するのは面倒なので、私は「黙して語らず」ただ少しづつ歳を取ることを受け入れるしかなかった。
ボブ・ディランが「マイバック・ペイジ」で語る老いた若者
そんなある日のこと、私が日頃から思っていたことを、あるフォーク歌手が一曲の歌にした。「マイ・バック・ページズ」という曲だった。作ったのはあの「風に吹かれて」で、プロテスト・ソングの主導者となり、なぜか老いては「ノーベル文学賞」をもらった反逆のフォーク歌手「ボブ・ディラン」だった。この曲は、ボブ・ディランが作詞、作曲、演奏、歌唱したもので、アルバム「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン(ボブ・ディランのもう一つの側面)」(1964年)に収録されている。
「マイ・バック・ページズ」という曲でボブ・ディランは、「あの頃の私はずいぶん老けていた。そして今といえば、あの頃よりはるかに若い!(Ah, but I was so much older then I’m younger than that now.)と、その言葉を象徴的な主張となるように効果的にリフレインしている。
ジョン・コルトレーンに見る「創造性」の未来
私が思うに、年齢と「保守性」や「革新性」とは何の関係もない。つまり人が新しい発想や感覚に目覚めるのは、年齢ではなく自分の限界を乗り越えようとする意志力の高まりと、自分の限界を乗り越えられる新しい技術を手にした時だけだと思うのだ。
私はかつて、音楽マネージメントの仕事に関わっていて、ジャズピアニストであるチック・コリアの「リターン・トゥ・フォーレバー」日本公演、トランペッターのマイルス‣ディビスの日本公演にも関わったことがあった。だからジャズについては関心以上の思いがあったのだが、その視点から言うと、例えば、かつて「ジョン・コルトレーン」というアルトやソプラノ・サックスで活躍したジャズの天才がいた。彼は「チム・チェム・チェリー」や「ソフトリー・アズ・モーニング・サンライズ」といった曲でモダン・ジャズの頂点に君臨していたアーティストだった。しかしある日、ジョン・コルトレーンは、青天の霹靂という感じで、オーネット・コールマン、アルバート・アイラー、セシル・テイラー、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ、ドン・チェリーといった前衛音楽的ともいえる「フリー・ジャズ」の先駆者たちが立ち上げつつあったキャンプに身を投じたのだった。
私が確信するに至ったことは
このことを敢えて例えれば、「人間国宝」の称号を持った「鼓(つづみ)」の名手が、世界の最先端にいる前衛ミュージシャンとセッションをしたようなモノだった。彼のフリー・ジャズへのシンパシィがその主要なきっかけになったかどうかは分からないが、その後フリー・ジャズは当時のジャズに大きな影響を与え、今もその愛好者は日本にも多い。つまり私が考える未知の分野を拓くアーティストとは、新進気鋭の若者ではなく、その時代を象徴するような巨人の鋭利な最先端がポキンと折れて、その折れた部分からこれまでだれも見たことのなかったような未来が顔をのぞかせたといったことだったのではないかと思う。私は今もそのイメージで、最先端に位置する巨人の伝統の先に未来があるのだと信じている。私たちの才能やエネルギーは、基本的に年齢とは無縁のところにある。それを知り自覚することが、創造性において人は何からも自由になるということだと思うのだ。