「夢千代日記」と「松葉ガニ」の時代
仕事を切り上げ、大阪から車で4時間の「湯村温泉」へ
企画や広告制作の仕事をしていても、経済状況や社会の動向によって多少仕事の内容にも変化があった。ちょうどこの頃はレジャー産業に活気があって、旅行パンフレットの受注が盛んだった。かなり昔のことだが、私たちの会社も、大手旅行会社のパンフレットの制作を担当していたことがあって、クライアントである旅行会社から、特別料金で兵庫県美方郡にある「湯村温泉」の名物旅館を紹介してもらったことがあった。「湯村温泉」は、その当時仕事の拠点だった大阪の事務所から車で4時間ほどの距離だったと思う。
私たちの会社は、「広告界のローソン」と呼ばれているほど、年中無休、24時間営業と訳の分からないほどの激務の会社だったが、その日は無理やり全員が早めに仕事を切り上げて、車で直接「湯村温泉」に行くつもりだった。
「湯村温泉」は、関東の人にはあまり知られていない温泉地だと思うが、今では、吉永小百合が主演するNHKの連続テレビドラマ「夢千代日記」のロケ地だったところとして知られている。
「みっちゃんムキムキ」という謎の囃子言葉に迎えられて
「湯村温泉」は、兵庫県の北西部、日本海側の山陰地方に位置し、鳥取県に接していている。南部は「氷ノ山・後山・那岐山国定公園」に指定されていて、自然の観光資源にも恵まれている地域だが、私たちは「カニ食べ放題」ということしか頭になく、そういう意味では旅館にとっては最悪の客だったと思う。カニと言っても冬は松葉ガニ、秋の紅ガニがあるのだが、食べたのは松葉ガニだったので、私たちが訪れていたのはきっと冬だったのだろう。
名前も忘れた旅館の玄関の扉を開けたら、突然旅館の若い衆らしい人が「みっちゃんムキムキ!みっちゃんムキムキ!」と、私たちに向かってはやし立てる。全く何のことか分からないが、どうも松葉ガニに関わることのようだ。私たちのメンバーの中に、相当に詮索好きな男がいて、旅館の若い衆から「みっちゃんムキムキ!」の謎を聞き出してくれた。その男の説明によると、みっちゃんというのはカニの殻からカニの身を取って、お客さんのお皿に盛り付けてくれる名人の名前だそうで、「カニ食べ放題」となると絶対的な「助っ人」となってくれる人だという。先ほどの若い人の囃子言葉は、カニの殻を剝(む)く名人、みっちゃんというスーパースターがやってくるという先ぶれだそうだ。
みっちゃんの神業で30分でバケツ1杯のカニの殻
この旅館では、客二人にみっちゃんの様な殻からカニの身を剥いてくれる仲居さんが一人専属で付き、一人の客に一つの大きなバケツが付くのだ。いざ食事となったら、仲居さんが殻から剝いてくれる松葉ガニの身の山にポン酢か特製の酢醤油をたっぷりかけて、ただひたすら食べるのだった。いかにカニとは言え、際限なく食べているとすぐにカニとお酒でお腹がいっぱいになってしまう。みっちゃんの神業も相まって、食べ始めてわずか30分で私たちは満腹になり、座敷に寝転がると言った無作法で無様な姿を晒すことになった。みんな同じような年齢だが、私たちより5歳ほど年上の先輩がいて、この先輩が「お前ら、小学生か!」と私たちを小馬鹿にして、松葉ガニ以外の料理に一人でゆっくり舌鼓を売っているのを見て、大人に言われるだけの馬鹿なことをしたという実感が込み上げてきたのを思い出した。
さもしきは、わが同胞(はらから)
私は、しょっちゅう全国の温泉巡りをしているわけではないので、詳しいことは知らないが、「湯村温泉」でもいまは「松葉ガニ」を前面に売り出しているのではなく、但馬ビーフや、白イカ、あるいはフランス料理のシェフを招いたりして、「松葉ガニ食べ放題」オンリーの「湯村温泉」から、「グルメ」の「湯村温泉」へと食の間口を広げようとしているように見える。「松葉ガニ」が昔から変わらず今も豊漁であれば幸いだが、全国的に漁業資源は厳しくなっているので、いまも「松葉ガニ食べ放題」のメニューがあるのかどうか知らないが、お客様へのサービズより漁業資源の保護の方が大切な時代なので、「松葉ガニ食べ放題」がなくなってもきっと怒る人はいないだろう。私たちは、「湯村温泉」に向かう前のはしゃいでいた気分から、「松葉ガニの殻」をバケツに山盛り積み上げて、満腹で身動き付かなかなくなった悲しい結末を思いだしながら、その時はそれでもまだ、来年もまた来るぞと決意した「さもしき」私たちだった。まさに、「飽食」の時代の前夜だった。