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「譜めくり」3年!

駆け出しのクラシック音楽のマネージャーとして

「譜めくり」というのは、楽譜をめくるということで、例えばピアノの演奏家が演奏会でプレイしているとき、両手がふさがっていて譜面がめくれないので、演奏者に換わって譜面をめくることだ。一般的には、ピアノのお弟子さんや、プロの場合はマネージャーが演奏者の斜め後ろに座って、必要な時に立ち上がって、あるいは座ったままで譜面をめくる。クラシック音楽のマネージャーには音楽関係の卒業生もいるが、私のように音楽とは全く無縁の世界からクラシック音楽の世界に飛び込んだ人もいる。

私も音楽事務所に入る前には、こうしたことに関して何か講習を受けるのかと思っていたが、そういったことは一切なくて、とりあえずは競合する他の音楽事務所や、オーケストラ事務局、放送局、大手の楽器店やプレイガイドなどへのあいさつ回りを命じられた。といっても相手にとっても迷惑な訪問に違いなく、また私に各所へのあいさつ回りを命じた上司も、私を遊ばせておくこともできないので無理やりに考え出した訪問先だったようだった。

アーティストとの相性が第一の関門だった

会社として実務的に決めなくてはならないことは、私をどのアーティストの担当にするかということだった。何分アーティストの中には気難しい女性の大御所もいて、そのアーティストたちと私との相性が重要で、上司はしきりにそのことを気にしていた。そのことは私への相当なプレッシャーになっていて、そのアーティストたちと相性が合わなかったら、ということばかり考えていた。ところがある日突然、その大御所のピアニストが事務所にやってきて、しばらく社長と面談していたが、その際に社長が私をその大御所に引き合わせてくれた。その大御所は決して愛想のいい人ではなかったが、かといって私が特に気に入らないというようでもないようで、急に来週に予定されているリサイタルの時からコンサートに随行してくれと頼まれた。来週といっても来週の火曜日で4日後のことだった。

それから、ざっと大御所の略歴を読んで、4日後のコンサートのプログラムをチェックした。そのほかコンサートに関わる注意事項を上司に尋ねたかったのだが、一口言えば10倍くらいになって返ってくる人なので、そこは避けて以前からの友人で、たまたまマネージャーの世界にいた友人に聞くことにした。とにかく初めてのコンサートなので、いろいろ注意点を聞かせた貰った。上司も私にぶっつけ本番でアーティストに随行させることは分かっているはずなので、できないことをさせるはずはないと自分を納得させていたが、何か難しい作業らしきものがあることを聞かされて一気に相当に神経質になっていた。

「譜めくり3年」と友人のマネージャーに脅されて

それは「譜めくり」という作業だった。友人は「譜めくり3年」といって、かなり習熟しなければアーティストが演奏しにくくなる。急に習熟することは無理なので、音大の学生などをアルバイトに雇うことを勧めるとまで言われた。そのことを上司に訴えると上司は、そんなものは誰でもその場になればできる。譜めくりを勉強したマネージャーなど聞いたことがないと軽くあしらわれた。そんなことで私は、恐怖と絶望感を抱えながら、ピアノの大御所の「譜めくり」にぶっつけ本番で臨むことになってしまった。

とにかく舞台に立ったこともない、大ホール一杯の客席を経験したこともない、コンサートのしきたりも知らない、「譜めくり」だけではなく開演のきっかけ一つ出せない私が、茫然自失といった感覚で、ただ演奏が始まるのを待っていることしかできなかった。しかし人間というものは不思議なもので、そこまで追いつめられると、私なりの才覚で無事このコンサートをやり遂げるという一種の覚悟のようなものが芽生え、的確に情報を整理して必要な行動をとり始めたのだ。早速楽屋にいる大御所のところに向かって、本番前の簡単な打ち合わせをしたいと願い出た。そこで正直に、「譜めくり」が初めてであることも告白し、不都合がないよう大御所の指示を仰いだのだった。それが意外に好感につながり、大御所の懇切丁寧な「譜めくり」のアドバイスを貰うことができた。
初めての「譜めくり」なので、私がちらっとあなたを見て合図するので、そしたら立ち上がって左の手で譜面の右上の端をつかんで、私が軽く頭を縦に動かすと一気に譜面をめくること。ゆっくりすると手の動きがアーティストの視野を遮ることになるのだそうだ。そしてまた、楽譜を知らない人は当然、反復記号を知らないので、そこだけは事前に詳しくチェックしておく必要があるとのことで、その場で反復記号の種類と意味を解説してくれた。

土壇場の大騒ぎで、何とか準備を終え、その日のコンサートは無事終了し、何とか私にとっての初舞台を終えることができた。それから実に12年間、なぜか私はこの一筋縄ではいかない大御所のマネージャーを長く担当することになったのだった。




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