我と汝・愛の誕生
宇宙の誕生を神の出現と同列で述べるのは誤りがあるかもしれません。この根源なる神霊は「無」という状態であったのが、自らの顕現とともに宇宙が創造されたということなのだろうと思います。
さて、完全でありその状態が絶対であるということは、変化がないということでもあります。
根源なる神霊が自らを顕現するということ、そして宇宙を創造するということは、それまでの不変なる状態ではなくなるということでもあるのです。
「ある時」または「ある地点」から神霊が「動いた」ことにより、AとBという2つの点が出現しました。神が揺らいだ瞬間です。
このとき、それまで完全であり絶対であった神霊は「我と汝」という2つの魂として顕現しました。
神が顕現されたとき、それは最初から2つの魂、つまりツインソウルとして現わされたのです。
神の完全性は失われたわけではありませんが、絶対性や普遍性というものは隠されました。
つまり、完全なる不完全性の誕生です。
その魂は、変化し成長するものとなったのです。
そして同時にすべての魂がこの時に誕生しました。
宇宙に満ちるすべての魂は、宇宙のはじめから存在しているのです。
そして、それらの魂はみな「我と汝」という関係性のなかにあります。
なぜなら、それこそがこの宇宙の根源的な原理であるからです。
この「我と汝」という関係性こそ、愛が存在する理由でもあります。
完全であり、絶対不変であったものが、そうでなくなったことにより、神は顕現され、宇宙が誕生しました。
つまり、愛とは完全ではないこと、絶対不変ではないことであるということもできます。
そしてそれは「我と汝」という関係性の中で語られるのです。
キリスト教会初期のすぐれた霊覚者、パウロは愛について次のように語りました。
もし、どんなにすばらしいことを語ったり、
人を感動させる言葉を語っても、
愛がなかったら、騒音と同じです。
もし、どんなに頭がよくて世界の知識に通じていたとしても、
また未来を見通せる優れた先見性があったとしても、
また、世界を動かしてしまうような強い信念があったとしても、
愛がなかったら空しいだけです。
また、もし自分の全財産を慈善事業に寄付したり、
犠牲を払って命を失うようなことがあったとしても、
愛がなかったらすべては無益です。
愛は寛容、
愛は共感、
愛はねたまない、
愛は傲慢ではなく、自慢しない。
愛は人を傷つけず、無欲です。
愛は感情を超え、感情に捕われません。
愛は真理。
そしてすべてを許し、
すべてを信じ、
すべてをゆだね、
すべてを受け入れます。
愛は無限です。
(1コリント13:1~8より)
愛は不完全であること、変化することをゆるします。
「我」が完全であれば「汝」は存在することはできません。
自分が絶対である…、言い換えれば自分が正しいとするなら、相手はその前に存在することはできません。
愛とは「我と汝」という関係性とともにある、宇宙の根源的原理であり、神の顕現そのものであるのです。
つづく