母の日に、もらうことの難しさを考えた。
去年の母の日は何もしなかった。一昨年もたぶん何も。それより前は、したかしてないか覚えてない。
私の中の「母の日」は、だいたいこんな扱い。
何かをあげなくちゃとか、何かしなくちゃという気持ちがほぼない。なんか、世間がそういう空気になってるから何かプレゼントでも贈ろうかな、と考えるだけ考えて、気付いたら当日になってしまい、まあいっか、となる。
なんでかなー、と、昨日ふと考えてみた。
例えば、職場でお土産とか、突然休んで迷惑掛けたからとか、ちょっと休憩中に一緒に食べようよとか、突発的にもらうお菓子。
私はあれ、すごく苦手だ。
もらってカバンに入れて、そのまま忘れる。そしてごくたまにあるカバンを整理しようと思ったときに出てくるそれは、潰れていたり粉々に砕けていたりしている。早いものだと消費期限も切れている。
別に、いらないものというわけじゃない。もらったときは嬉しいし、おいしそうだから後で食べようとうきうきすることすらある。でもだめ。大抵だめにする。気持ちの問題じゃない。どうしても食べきることができない。
例えば、実家から時々送られてくる実家からの『支援物資』。うちはちょい田舎なので、自宅で野菜を作っているのだけれどその野菜たちが入っているときがある。
もちろんすごくありがたいし嬉しい。実家大好きな私としては、実家を感じられるものだということでそのもの自体の扱いもちょっといいものになる。大好きな実家からきてくれた、大切なお野菜たち。
でもそれもだめ。予定外の野菜は、ほぼ確実に腐らせる。なんなら「これ送るからね」と予告されていてもだめにしてしまう。
カタログギフトもそうだな。だいたいお返しでもらうことが多いけど、そもそも返してもらおうと思ってないから突然「ギフト」されてもギフトされる頭にまずならない。
カタログを見るのは楽しい。知らない商品やおしゃれなものを見るのはいい。いいのだけど、それを手に入れるというところに結びつかないことが多い。これはもしかしたら、手に入れるまでの注文するプロセスが面倒だったり締め切りの日を忘れてしまったりすることも大いに関係あると思うけど。
自分から「ほしい」と言って手に入れるものは、しっかり自分の中に入っている感覚があって、だからなんとか処理できる。しかしそれでも無駄にしてしまうこともあるので、そもそも欲しいものが多すぎるんだけど、そのせいで突然わたしのなかに入り込んでくる『何か』にまで意識が回らないのかもしれない。
だから、頼んでいない贈り物が突然やってくるのは結構困る。
もちろん、相手もそうかもしれないとは思っていないし、何かあげたら喜ぶのかもしれないとは思うんだけど、気持ちが乗らない。
なぜかって、私は後々後悔するから。
自分が母になって3年、今年の母の日はケーキを買った。それも、家族で出かけた先で「ケーキでも買う? どう?」と夫が聞いてくれて、おいしそうだから「買おう」となった。自分で選んで、買うときに晩ご飯のデザートにしようと決めたから無駄にはしなかった。
うちはまだ小さいから、なんとなくしか想像できないけれど。そのうち子どもから、母の日だからと何かもらうこともあるんだと思う。多分そのとき一番最初にわたしの中に生まれるのは「ありがとう、嬉しいよ」で、その次が「そんなに気を遣わないで」だろうと今想像した。
特にわたしは根本に世代送りの感覚があるから、自分がしてもらったことを子どもにしてあげたいし、子どもからは返してもらうより次世代に渡していってもらいたい。
だから今日、わたしは母に何もしなかったけど。
『同僚』のお母さんたちには、ひと言贈っておくね。
わたしを含む世の中のお母さん、今日も一日おつかれさま。