何度目かの1日目
日記というものは三日坊主の人間にとって、憧れだ。
三日坊主なやつほど、日記を書きたがる。部屋には何冊も日記があり、そのほとんどが最初の10ページに届かず放擲される。
今回もそれです、今あなたが読んでる文章。
明々後日、32歳になる。
ネットには年齢を隠す文化があるように思う。なぜかみんな年齢を明かしていない。若く見られたい人はいる気がするからそういう理由なのかもしれないが、基本的に年齢は明かしたほうがメリットがあると思う。
コミュニケーションにおいて、相手の世代がわかれば御し易い。
「御し易い」とか思ってるのがダメなんだよな多分、でも、この世界が哲学的ゾンビで溢れていたら、関係性とはお互いが許容範囲内で支配し合うことだと思う。
まあ、上の話で言えば、明かしてるのは僕で、みんなはそんなに明かしていないのだから、僕は一方的に御されているのだから、僕の性格が悪いわけではない。
30歳の時に、日記を始めておけばよかったと思う。僕は半端な数が嫌いだ。覚えられないから。
特に、誕生日や自分の年齢に酷く関心がない。というか、興味がないから明かしているのかもしれない。他の人には、年齢にもっと特別な意味があるのかも。
このタイミングで日記を始めるのは、半端な数が嫌いだからだ。
半端な数とは、惜しい数だ。
32歳になる日が半端なのは、30歳になる日が綺麗だからだ。
32歳になる3日目で、後1日待てば12月1日になるし、あと1ヶ月待てば2025年になる。
あえて、そのどれでもない日に始めれば、気持ち悪すぎて気持ち悪くない。
そういうことだ。
あと、これは日記と言ったが、あれは嘘だ。
日記を書こうとして継続したことは一度もない。
そもそも、何かが続いたことがない。
最も長く続けているのは創作小説だ。
僕は小学2年生の頃にノートに漫画を描き始めた、それから創作をやらなかった年はない。でもこれは継続というより、排泄だ。
脳の容量には限界がある。知ったことや思いついたことを溜めていたら多分自殺していた。
私は32年間毎日トイレに行きました。
これを継続と言わないなら創作も継続とは言わない。
そもそも、年に一回しかペンを執らなかった年もある。
次に、Twitterだ。
𝕏になったので継続期間は途切れたとも言えるが、本質は同じなので加算する。すると僕の𝕏歴は約15年だ。人生の半分弱。
冗談ではなく人生を変えたサービスだ。
これについてはなぜ始めたかも覚えていないが、なぜかやめていない。
見ていない日もない、ポストしない日はあるけど。
これは継続というか、中毒だ。
でも悪いとは思っていない、趣味も恋もこれがなければなかったはずだ。
最後に、読書だ。
読書は絵本と漫画を入れれば創作より少し後から続けているが、小説は5年生くらいか。学校の読書の時間が初手だったかも。
まあこれについては創作の副産物だ。創作において最も重要なのはおそらく文章を書くことよりも、何かを思いつくことだと思う。それにおいて、読書は補給源であり引き金だ。反応を起こす物質を脳に蓄え、火花を散らせ、出力する。その第一段階。映画でも音楽でもいいが、僕の創作は主に文章なので、最も高効率なのは文章を脳に入れることだ。
よって継続しようと思っているわけではない。
だから、結局僕にとって何かが続くというのは、排泄のようにマストのものになるか中毒になってついついやってしまうかのどちらかだ。
日記は、どう考えてもそこに入らない。
だからこれは幾度目かの日記1日目であるし、おそらくこれからも何回も1日目が訪れる。三日坊主なやつほど、日記を書きたがる。