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他人の価値

ふだんの私はYouTubeでは音楽しか聴かないのだけど … うっかりしてオススメしてきた啓発系動画に入ってしまった。読み上げソフトにテキストを読ませているだけの10分ほどの動画。いつもなら即刻チャンネルを変えてしまうのに、昨日はその動画を最後まで視聴してしまった。

内容はこうだ。あるところに朝摘んだ花を売って一家を支えている少女がいたと。その少女の花はとても人気があったのだけど、やってくるのはいつも「手持ちのお金がないんだ」という客ばかりだった。そんなとき少女は、つい売り物の花を笑顔でタダで差し出してしまう。
少女は人が喜ぶ顔が好きで、人から喜ばれることが大好きだったのだ。

すごく働いているのに、どんどん生活が苦しくなっていく。

病弱で床に臥してばかりの母親は娘の稼ぎの少なさに、わけも聞かず「がんばりが足りない。もっとがんばりなさい」という。どんどん少女は追い詰められていったが、それでもいつもの行動がやめられなかった。

そんな中で少女はブッダ(だったかどうか…いまひとつ記憶が曖昧だ)に出会った。苦しみについて彼に話を聞いてもらった。ブッダはこう言った。

「あなたは〝自分が人から感謝されたいという煩悩〟に囚われている」

ある日、大きな嵐が少女たちのもとを襲った。花畑は泥だらけの荒れ地と化し、花を摘むことすら叶わなくなってしまった。それでも、嵐のせいで困っている人たちがいるだろうと考えて、少女はごくわずかな花だけを携えていつもの場所に赴いた。すぐに花は無くなったが、タダで譲ってもらえる花がないことを知るや、話しかけてきた人たちは少女からことごとく離れていった。

実はまだ話は続く。一応はまあまあのハッピーエンドってふうになる。

花を欲しがってばかりいるのに、いつもタダで花を求める少年がいた。
「どうして自分で摘もうと思わないのか」と問うたところ「だってお姉さんがいつもくれるから」と答えたことにいたくショックを受け、少女は荒れ地の復興を手がけるとともに、かつてタダで花を求めた人々に花の育てかたや摘み方を教えるようになり…一応はめでたしめでたしというオチだ。

それにしても、ただならぬ引っかかりを覚えてしまった。
私自身こそがかなり重度の「タダで自分の手持ちを差し出してしまう」心性の持ち主で、その結果、客や上長やら経営者やらからむしり取られることが当たり前ってふうな人生を送り続けてきてしまった(もちろん誰も彼もがそうというわけではないけれどね)。

現在もってそうだ。バイトでは長年培ったスキルを考えたくないほど安く売ってくるのだけど、加齢ゆえ体力はなくなっているからこれまでの倍以上疲れて家に帰ってくる。ポストには容赦のない市税の督促が入り、電話で事情を話すことを試みて信じられない屈辱を浴びせられるはめになった。お前らだって所詮、取立人という立場を借りたただの生活者だろうが。

仕事の安売りやめちゃうと国僕どもに殺される(まあこれは大げさだ)。

実は一度、昨夕ごろにこの憂鬱を〝つぶやき〟として投稿した。ただ、つぶやきではどうも言葉足らずな気がしてきたので投稿は一度引っ込めた。あまり愉快な気分になれない話をコミュニティーに持ちこんでしまっているわけだ。ある程度、きちんとした文章でお伝えすることがせめてもの誠意だろう。

気が滅入りそうだなとお感じになられたならば、ここで私の文章から離れてください。お読みいただいている方のご気分を滅入らせることが本意なのではありません ^^ 。

東日本震災、コロナ禍、未曾有の物価高 …


私は苦しい。でも私以上に苦しんでいる方々も多いことだろう。そもそも苦しみというものが、相対的に比較することのできない性質を持っている。少なくとも「病気自慢」「不幸自慢」なんてものは、喧嘩してまでやるものなんかではない。

そうそう。別の動画でこういうのもあった。

東日本震災のときにある外国人ジャーナリストが被災地を訪れて、被災者さんたちからご飯を勧められてひどく驚いたという。これまで訪れた場所ではほぼ例外なく被災地での略奪行為が横行し、そういう場面ばかり見てきたのだという。

家族を津波に奪われたと語る少年があまりにも不憫で手持ちの食糧を譲ったところ、少年はそれらをすべて共有ボックスに入れてしまった。ジャーナリストが「せっかくあげたのに」…と思って呆気にとられていたら「もっとお腹を空かせている人がいると思うから譲りたい」と少年は静かに語った。

日本人の心性とはこういうものだ。

一般庶民の間ではまだかろうじて、この心性を美的なものとしてシェアしているけれど … だんだんほころびが広がっていきそうな予感がある。

これがなお美学であり続けられたらどれほど幸せだろうかと。

他方でそういう態度を「アタマが御花畑」だとかいって茶化す輩がいる。

そして政治家と役人は、日本の〝一般庶民〟がこういう「暴動すら起こせない心性」であることに味をしめてしまったのだ(と私は感じている)。
「弱者からむしりとればいい」
「強者に頭を下げるよりずーっと楽だし」
「あいつらどうせ歯向かえないんだし www」
— 権力者どもがそう考え始めているように思えてならない。


絶望ゆえの矛先が権力でなく同胞であるということ


いや庶民であれ絶望に瀕したとき、権力者にかみつくでもなく、さらに自分より弱そうな相手に矛先が向いてしまう。世代間闘争だっていってみれば(かなり複雑なのだけれど)横並びであるはずの人々だ。怒りの矛先を向けあってなじりあってるのが悲しい。

ルサンチマン(妬みの感情)は必要悪だと思っている。どれほど綺麗事を並べ立てたとしても、金持ちが羨ましい。金持ちでなくてもそれほどお金に困ってない人が羨ましい。困っている人でも自分よりマシな人が羨ましい … こうして少しでも攻撃しやすそうな標的を心のうちで選んでしまっていやしないか。

その果ては…子供へ危害を加えたり、見知らぬ境遇すら知らない人に対して通り魔をはたらいてしまう。おそらく事情聴取が進むにつれて明らかになっていく動機というのは「生活の困窮」「社会や権力への不満」ってふうになるのだろう。卑怯者めがと思う。横並びで生きる者に八つ当たりしてんじゃねえよ。

権力者の命とそうでない人の命の価値をラベルづけしているところが卑怯極まりない。あなたを追い詰めたはずの権力に手出しできないという中で、横並びに近い人間を選んで標的とすることが卑怯なのだ。自分が死ぬことが怖いと思うのなら、理由なしに他人をあやめてはならない。いや、理由があったとしても殺めてはならない〝法治国家〟の下で秩序を保ち安全が保障されていることを忘れるべからず。もちろん…自分を殺めるのもやめとけ。覚悟が足りなすぎる。

ただ、私もあなたも…ちょっと「物分かりが良すぎ」あるいは「長いものに巻かれすぎ」かもしれないんだけれどね。

他人の切腹は美学なんですか?


権力への「究極の抗議」というのなら、それはやはり命のやり取りを以ってといった、穏やかではない話になってしまうだろう。

「やっぱり人間って引き際が重要だと思うんですよ。別に物理的な切腹だけでなくてもよくて、社会的な切腹でもよくて、過去の功績を使って居座り続ける人がいろいろなレイヤーで多すぎるというのが、この国の明らかな問題」

私の宿敵(だと一方的に思っているだけ)である成田悠輔の意見

引き際というのは、その人自身だけに語る資格がある。
ある意味、世代間闘争を客観視した上での他人への配慮でさえある。
そもそも、引き際を当の本人をすっ飛ばして他人が語ること
自体が卑怯極まりないことなのではないか。もし他人が引き際を勧めたとしたら、それ自体がすでにハラスメントだろ? 余計なお世話って次元なんかではない。

せっかく他人を大事にすることのできる心性を擁していたのに、誰かの引き際を赤の他人が語ることがSNS上で流行っている。私と同じ名前のインフルエンサーとかホリエとか…空調のよく効いた部屋で指先ひとつで皮肉ったりボケカス扱いしたりしているのがどうも格好良く見えるらしいのだけど、まずこの風潮を助長したのはオールドメディアだ(と思っている)。

あと、これはnoteに身を置いておきながら本当に悪いのだけれど … この風潮をあおっているのはインターネット、そのSNSと呼ばれるツールのせいだと考えている。本当にごめん。

それでだ。あのなあ…他人に切腹をすすめる前に、てめえがてめえ自身の死を脇において他人の死を語る資格があるのかどうかを考えろよと。日本人は学歴ってやつに実に弱いところがあって(かくいう私も東大にはめっぽう弱い)、本質以前に「誰が言ったのか」で正しさを評価してしまっているところがありそうで。

切腹が美学だと言ったのは江戸時代の人か、あるいは三島由紀夫の自死を見ていた者たちだと思う。でも、対話というコミュニケーションをすっかり分断という手法で権力者たちが潰しにかかってしまったこの時代だ。切腹が美学だと説いているのは特権階級だということを忘れるな。誰ひとり自殺なんてさせたくないし、迷惑かけずに死ねなんて不条理な物言いに従う必要なんてない。ただ…肉体を瞬時に物理的破壊する方法だけはやめておけ。誰ひとりそこまでの苦しみを背負って辞世しなければならない者なんていない。

他人なんて信じるな、他人に私の価値を決めさせるな


もちろん私が言うことも、額面どおりに腑に落としてはいけない。
大事なことは当人が考え抜いて納得することなのだと思っている。

基本的には自分が一番大事というので当たり前だ。
そこへ愛というものがあれば実に美しい。昭和にはそういう文化(歌謡曲やJPOPで歌われているのってこのテーマばかりだっただろ?)があった。昭和はめちゃくちゃな時代だったけれど、まだ愛があったような気がしている。会社だって帰属意識を持って働くことはこれっぽちも危なっかしいことではなかったと思うのだが … いつから経営者が身内(雇用者)からまでも搾取しようと企てるようになったのかなと。

働いたら負け — これが本音ではある。
私を辱めるようなものからお金をいただきたいとは感じない。

嵐のような年末だな、まったく。

安全のために母親の痴呆症が本格化してからは、家内を連れて帰省していない。妄想や悪い本音をともなった暴言もろもろで事故が起こることを未然に防いでいるつもりだ。そもそも身内関係のヒエラルキーというのは、これほど情に厚い日本文化の中で(というよりは情に厚いからこそかもしれないが)家庭内・身内間でのハラスメントを助長し続けてきたのだ。

この心理状態で帰省して、前頭葉がスカスカになっちまった母親のことを父親がいじめるところを見るってのは辛いよなあ。まして親子関係以外にも問題を抱えすぎているので … まずはなんとか親子喧嘩することなく地元に戻りたいものだ。

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