![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/167235347/rectangle_large_type_2_446abd085cf9f0c05d4150172f987621.jpeg?width=1200)
学生は見栄なんて張らなくていい(雑記)
見た目を意識して実際よりもよく見せようとする態度、外見を偽って実際よりも優れたものに見せること — 「見栄って何ですか?」とグーグル先生に尋ねてよこしてきた答はこうだった。
私はいまだに人一倍劣等感が強い。というか、生きる中で必要ないろいろな場面において私には器用さも教養も足りないということを感じずにはいられない。その不器用さや無教養はどうしても私の自尊心を曇らせてしまう。「不器用であることに対して開き直る」か「不器用であることを隠す」かのどちらかしか方法はない。
高校時代の私の成績はあまりよくなかった。定期テストが返ってきて真っ先にやっていたのは、答案用紙の右隅上を折って点数を隠すことだった。他人からその点数を見られることをひどく恐れていた。
とはいえ、答案の隅を折って点数を隠すことは成績の良かった中学時代にもやっていた。100点を取ったときでさえ — 冷やかされるのが嫌だったものだから。かといって90点のときも満点ではなかったことが悔しいからやっていたし、80点台のときはなおさら — 振り返れば、家に帰るとおそらく母親が90点を超えていなければ納得しなかったのではないかと。これほど頑張っているのに「もっとがんばりなさい」と言われ続けたのではないかと。親が求めるものなんて無責任な青天井。常に100点を取っていなければならないことになるではないか。私はもともと野心家的な性格の持ち主なんかではない。子供のころに野心家的な振る舞いをやっていたとすれば、それは小さな周りからの承認欲求を満たしたかったせいでしかなかったのだろうな。
理系教科が得意ってことになっていたが、これは単に中学以前でのペーパーテストの成績が良かったからでしかない。ときどき80点代になった国語や社会だって、いま思えばそれほど地頭ゆえの点数だったわけなんかではない。単に「優等生的な暗記中心のお勉強」だけで正解の導き方がわからない問題ってやつに出くわしたせいでしかないのだと思う。「あなたは国語や社会が苦手」ってのは、点数を見て母親が貼ったレッテルでしかないのだ。現在の私は理系教科を教えることで糧を得て納税しているが、いまさらながら素質とか適性のほうはド文系だったかもな…と。
理系がえらいとか文系がえらいといった話なんかではない。すごく乱暴に言えば体験的なものをもとにして考える人なのか、抽象的方法で演繹したものに意味づけをできる人なのかだけの違いでしかないと思っている。プリンキピアでのニュートンは微積をゴリゴリの幾何的手法で扱っている。手続き的な演算処理による微積を開発したのはライプニッツだという(このくだりはすごく乱暴にかつ私の無知な頭で解釈している)。ある意味、初等幾何学とは視覚的かつ経験的な数学なのだろうか。とはいえ、元々の私は幾何学が大の苦手だった(笑)。3次元でしか感覚できない世界に棲んでいながら、無邪気にもN次元まで拡張しよう!なんていうのは数学屋である。誰が言ったものだか…立体的空間に時間を加えて4次元と呼ぶことに対しては、私の悪い頭ではいささかの抵抗がある。アインシュタインは光速を普遍量として時間と空間とを結びつけているわけだから、時間と空間との間に等価性があるとでも言いたいのかもしれないけど … 私にはxyzの各要素と時間との間に対称性(交換可能性)なんて見出せない。なんだかずいぶんキテレツなことを書いていることを自覚している…怒らないでね、エラい人♡。
それはともかく…学生時代にこれほどの惨状にあった私が、いまは難関受験に挑む学生を仕事として教えている(教えているのは森羅万象スケールでの物理学なんかでなく、私は単に文科省指導要録の弁士にすぎない)。私はなんでも知っているなんて一度たりとも思ったことはない…同僚連中から「オマエみたいなのがこの仕事してたら大学の先生に怒られちゃうよ」なんて言葉でバカにされたりとかもした。
なんとでも言え。いや、院卒連中が私なんかより頭悪いことを言ってた場面だって幾度か経験している。要はヒエラルキーでマウントされただけなのだと思う。
私のコンプレックスは大きい。
机上の問題こそ解けるのだけれど、高校で学んだ机上レベルのものが実社会の産業を支えているテクノロジーとしてどのような姿で活かされているのかを実はほとんど知らないままだった(現在なおそうかもしれない)。範囲はまさに多岐に及ぶわけだから、どの領域に対してもプロ並みの知識を得ることは難しい。実はわからないことを本当のプロに教えてもらうための愛嬌だって必要なのだ。本当は知らないことは知らないと言いたいし、わからないことはわからないと言いたい。
大人になって学問をやろうとすると、嫌味のひとつも言われながら教わることがしょっちゅうってふうになる。嫌味を言われることなく教わることができるのは学生の特権である。だから学生こそ、無知に対して変な見栄なんぞ張らなくていいはずなのだが…やはり無理なんだろうな。かつての私とまったく同じように。
学問(実は受験のためのそれを学問と呼んでいいのかもわからなくなってしまっているんだけれど)…いや、学問なんてやらないほうがいい。学問ではなく生活がしたい…実は最近、そのことを強く感じながら仕事をやっている。