見出し画像

爆弾になれなかったセミ

きのうの朝、病院に行くために玄関を開けたら、こんなふうに玄関先に一匹のセミがひっくり返っていた。

脚が開いており生きていることがわかる(詳しくは後述します)

私の家のまわりでも、しゅわしゅわしゅわ…とクマゼミがあちらこちらで鳴いているのが聞こえる。Wikipediaをはじめネット上では「名古屋にはミンミンゼミがいない」というのが定説だ。少なくとも自宅の近所ではミンミンゼミの鳴き声を聞かない。

こんなふうにヘソ天(ヘソは無いが)でひっくり返っているセミに近づいてみたら、けたたましく羽を鳴らしながら飛び上がってくることがある。いわゆる〝セミ爆弾〟だ。この写真を撮ろうとしてスマホを近づけたとき、かすかに脚が動いたので少し身構えた。きのうの私は、セミを驚かさないようにそっと玄関を離れた。

地面に転がって動かずにいたセミが突然飛び上がるのは、死期が迫って体力が失われ、弱って動けなくなっていたところに人が近付いたことで防衛本能が働き、物理的な反応として“逃げよう”とする行動によるものです。

ウェザーニュース(https://weathernews.jp/s/topics/202109/010085/)より引用


セミ爆弾は簡単な観察で回避できる


リンクを貼っておいたウェザーニュースの記事によれば、こういう姿勢でひっくり返っているセミが爆弾であるかどうかを見分ける方法があるという。面白い記事だったので詳しく知りたい方はご訪問いただきたいと思うが、簡単にお伝えしておくとこうだ。

生きているセミ(つまり爆発するセミ)は脚が開いた状態でいる。死んだセミ(つまり不発弾のほう)は脚を閉じた状態になる。たったそれだけだ。脚が閉じてしまうのは、いってみれば死後硬直みたいなことらしい。

こんな簡単なことなのに、知らないままアラフィフ越えまで生きてしまったとは。世の中にはまだまだ知らないことがいっぱいあるものだな。

夕方に見たセミは位置がちょっと変わっていた


夕方に帰宅したときも、やはりセミは玄関先にいた。ただ…ほんの少しだけ位置が変わっていた。2〜3蝉身ほど移動したのか隅っこのほうにいた。この姿勢でどうやって移動したのか…ほんの一瞬だけ腹這いで移動したのか、それとも羽を使ったのか、はたまた期せずして風で動いたのか。

さきほどの記事で読んだのだけど、こうしてひっくり返っているセミはいずれにしても体力が弱っている。もし本能にまかせて爆弾化したとしても、それは防衛のために〝最後の力を振り絞って〟逃げているのだ。最後の力を振り絞ったあとは、それほど命も長くあるまい。それにしても、命が尽きようとしているこの期に及んでそれでも逃げようとしてしまうってのは…本能とはいえ不憫である。死ぬことがわかっているのだから、外敵が来ても身を任せてしまえばいいように思えるのだけど…生きているってのはそういうことなんだろうなと思う。理屈ではないし、セミは理屈を考えるなどという面倒なことはきっとしないだろう。

キャスターつきのバッグを携えて…


そして今朝。きょうからまた数日ほどの泊まり仕事に向かう。日曜の出発というのはどうも気が重い。せっかくの休みなのに家内を一人きりにしてしまうので。

セミは昨夕とほぼ同じポジションにいたが … 明らかに脚が閉じてしまっていた。

ああ死んだのか。いったんは淡々とした心もちのままエレベーターで階下に下りたものの、なんともいえない気持ちになって階上のボタンを押し、そのまま玄関先へと引き返した。

そのセミをもう一度眺めた。たしかに脚は閉じている。

そっと拾い上げて手のひらに乗せた。もう微動だにしない。
アイキャッチは、その左手のひらの上にセミを乗せてエレベーター内で撮った写真だ。

アイキャッチの写真(手のひらに乗せたセミ)と、記事冒頭の写真(玄関先でひっくり返ってるセミ)を見比べてみてくださいな。脚のちがいがはっきりわかると思います。

昨日のうちに爆弾化させてあげたほうが、彼にとっての〝蝉生〟は豊かなものになり得たのだろうか。いや、満身創痍になることなく穏やかに我が家の玄関先でフェイドアウトできて良かったのだと思いたい。実際のところ、どうなんだろう?

再び階下へと戻ってバッグを待たせて、セミの亡き骸をそっと土の上へそっと置いた。いったんは腹を上にしたが、すぐさま木を飛び回っていたときの姿勢に直した。高層建築物上階の冷たい床なんかよりも、土の寝床のほうが心地良かろうという余計なお節介。ちょっと暑いか。安らかに眠ってくれ。

電車まで時間の余裕はあまりなかった。こういうときは合掌ぐらいしておくべきものだったかもしれない…後になってから思った。

寿命の長さと生きざまへの幸福感


生命が長いとか短いとかいった話を、たまたまアンデルセン童話で最近目を通したのを思い出した。

夏の暑い日には、よく、カゲロウが、この木のこずえのまわりを、とびまわります。カゲロウは、いかにも楽しそうに、ふわふわダンスを踊ります。それから、この小さな生きものは、カシワの木の大きな、みずみずしい葉の上にとまって、ちょっと休みます。そういうときには、心から幸福を感じています。
 すると、カシワの木は、いつも、こう言いました。
「かわいそうなおちびさん。たった一日が、おまえにとっての一生とはねえ。なんとみじかい命だろう! まったくもって、悲しいことだなあ!」
「悲しいことですって?」と、そのたびに、カゲロウは言いました。「それは、どういうことなの? なにもかもが、こんなに、たとえようもないほど明るくて、暖かくて、美しいじゃありませんか。あたしは、とってもしあわせなのよ!」
「だが、たった一日だけ。それで、なにもかもが、おしまいじゃないか」
「おしまい?」と、カゲロウは言いました。「なにがおしまいなの? あなたも、おしまいになる?」
「いいや。わしは、おそらく、おまえの何千倍も生きるだろうよ。それに、わしの一日というのは、一年の、春・夏・秋・冬ぜんぶにあたるのだ。とても長くて、おまえには、かぞえることはできんだろうよ」
「そうね。だって、あなたのおっしゃることが、わかりませんもの。あなたは、あたしの、何千倍も、生きているんですのね。でも、あたしだって、一瞬間の何千倍も生きて、楽しく、しあわせに、くらしますわ。あなたが死ぬと、この世の美しいものは、みんな、なくなってしまいますの?」
「とんでもない」と、カシワの木は、答えました。「それは、長くつづくよ。わしなどが考えることもできんくらい、いつまでも、かぎりなくつづくのだよ」
「それなら、あなたの一生も、あたしたちの一生と、たいしてかわらないわ。ただ、かぞえかたが、ちがうだけですもの」
 こう言うとカゲロウは、また、空にはねあがって、ダンスをしました。

「年とったカシワの木のさいごの夢」の一節より引用(青空文庫)

このセミに魂があって私に何か話しかけることができるのだとすれば、おそらくこの物語のカゲロウと似たようなことを言われるのかもしれない。あるいは人生が長すぎることのほうに同情されてしまうかもしれない。

カシワの木が迎えた〝クリスマスの夜〟まで、私の時間はまだまだ続いていく。

ああ暑いね。仕事にいってきます(いま車中でこれを書いてます)。

いいなと思ったら応援しよう!