貧乏なんだけど質屋を利用したことがない
足を悪くした父親が「高層階では生活に支障が出る」といって分譲マンションを売ってしまったあたりだろうか。ぜいたく品ばかり買っていた父親が断捨離に取り掛かっていた。そのとき、コレクションだった記念コインを譲ってくれた。これは相当貴重なものだから相当いい値がつくぞ、とすごく恩着せがましく押し付けられた格好だ。貰ってもすぐに売るかも知れんよ、と念押しした上で譲り受けた。一体いくらぐらいになるのだろうと思いながら持ちつづけていた。私自身も数万円ぐらいにはなるのだろうと思い込んでいた。
本業の仕事量が大幅に削減され、兼業のほうも応募しても(年齢がネックか)まったく決まらなかった。ほかにもいろいろあって貯金が底をつき、消費者金融でカードを作るかどうかずいぶん迷っていた時期に、やむにやまれず意を決して金券売買をやっている店に持ち込んだ。査定まで1時間ほど待ってから再び店に行って聞かされた話に愕然とした。
記念コインには値がつけられません…と。
店員から勧められたのは、銀行に持ち込んで額面通りの額で両替することだった。この店でこのときに買い取ってもらえたのは、父親と母親がラスベガス旅行に行ったときに使わずにそのままにしてあったドルの紙幣貨幣(ご丁寧にもコレクションと一緒のホルダーに保管されていた)だけだったのだから笑うしかない。
で…まさかこれほどまでの円安時代到来(まだ安くなるんだろうな)。
本音をいえば、もう少し取っておけばよかったなあと思う。
今朝がた、急に思い立って「罪と罰」を読み始めた。言ってみれば、夜中に急にいなり寿司が食べたくなってセブンイレブンに行きました…というのとそれほど変わらないぐらいのたわいのない話でしかない。
読書はほんとうは紙の本でやったほうがいいが、最近は電子書籍ばかりだ。
紙の本であれば厚みから読了した分量がわかる。電子書籍であっても一応は画面上で読了した分量はわかるのだけど、こればかりは手の感覚からつかみたいところがある。長いことそれでやってきたのだから仕方ない。
それでも紙をやめなければならなくなったのは老眼のせいだ。電子書籍は光源の光を直接目に入れるわけだから、たしかに眼精疲労がすすむ。むかしは目薬なんてほとんどささなかったのに、最近は目薬が手放せなくなってしまった。視界のかすみを取るにはやはり目薬は効果があると感じている。どうでもいい話だが…目薬のしずくを目に落とすとき、なぜか口も開いてしまうのだがなぜなんだろう。
タブレットやPCで本当にありがたいのは文字を拡大できることだ。
一応はハヅキルーペ(あの大袈裟なCMでおなじみの)も持っているのだけど、紙本をハヅキルーペで読むこととPCで電子書籍を読むことのどちらが快適かを比較したときに後者に軍配があがった。一応は中古で買った電子ペーパーも持っているけれど、私には「常時すぐに作業にかかれる」ことが大事みたいだ。私のPCはテレビやデュークボックスの役割も兼ねている(っていうかデュークボックスなんてまだ現役で稼働している場所なんていまどきあるんだろうか?)。
ドストエフスキーの文庫本はおそらく学生のころに手元に置いたけれど、ほとんど読まずに処分してしまった。外国文学は難解だとばかりに敬遠することが多かった。漫画でさえかなり苦労しながら読んだ。浦沢直樹さんの「MONSTER」が読破できたのは、イラストで描かれた姿がこの人が誰なのかを教えてくれたからにほかならない。TXTだけで読んだとすれば、まちがいなく挫折している。
「罪と罰」ってそれほど多くの登場人物が出てくるわけではない(このくだりを書いた時点ではまだ冒頭付近しか読んでおらず、独特の表現の可笑しさを遅読して楽しんでいておりました。無知ゆえに前言撤回。けっこういろんな人物が出てくることを思い出してきました)。ずるいけれどストーリーのほうは、すでに漫⭐︎画太郎画伯に教えてもらっている(でも順番としては…やはり原作が先ってほうが安全であるとだけ書いておく ^^; )。ドストエフスキーなんていえば偏屈な文章を書く人だろと言われそうだけど、たぶん現在の私のほうが偏屈なぐらいだと思う(笑)。
いざ読み始めたところ、あまりに面白すぎていったん中断している。まもなく仕事に行かなければならない。没頭しすぎるとやばい。
貧乏人が主人公である文学作品には、かなり多くの作品で質屋が登場する。
冒頭に記念コインを売ってきたエピソードを書いてみたものの … 昔ながらの質屋さんというものにはお世話になったことがない。名古屋にはコメ兵という有名なリユース品の販売・買取をやっている店があり、かつてはCMもよく流れていたが、こちらにもお世話になったことがない。ブランド品しか買い取ってくれないイメージがあるが、ブランド品なんて金回りがましだった時代もふくめてまったく興味がなかったし手元にもない。
質屋以外にもいまどきの古物売買にはカジュアルな方法がたくさんあるが、引越しのために大量に持っていた本を断捨離したときにブックオフにダンボールを何度か送ったぐらいしか経験がないなあ。
メルカリでさえ(買ったことはしょっちゅうあるが)売ったことはない。
中古品に関しては…ノークレーム・ノーリターンでお願いしますという文言が多いけれど、やはり悪質な出品者にかかってしまうことは経験している。
あるアーティストの海外版が欲しくてネット上(Amazonのマーケットプレイス)でジャケットを見て買ったところ、それが日本版だったというのがある。海外版にしか収録されていない曲があったから買ったのだ。その旨をメールで伝えたら、最初の返信では「紹介文には邦盤か洋盤かは書いていない」と開き直られた。ただ…そのときは先方があとになって無料で返品に応じる(そのかわりショップに「悪評価」をつけないでくれと頼まれた)ことになった。もう何もかもが胸糞悪すぎたので評価はつけていない。悪いからもう二度と関わらないでくれ…みたいな感じ。
メルカリのほうも…本音で評価していいとおっしゃるなら、1/10ほど?は粗悪な品だったように思う。主に仕事で使うための資料を買っていたが、中には原本ではなく明らかにコピーだろってものが送られてきたこともあった(面倒くさいからいちいちクレームは出していない)。鉄道写真も2度か3度ばかり買ってはみたものの、明らかに自宅用プリンターで印刷しただろといったものだった(安ければそれでも構わないのだが、それなりの金額で出品されているものなんだから、それはやめてほしい)。手元に置くだけならネットで拾った高画質なものをフジカラーでプリントしてもいいわけだがそれはやっていない。あくまで個人(職業写真家ではない)が撮ったものを買い求めている。著作権等々で揉めたくないから。できればフィルムからプリントされたものがいいのけれど…もう何を基準にして買えばいいのだかわからなくなってきたというのが本音だ。
ものの値段ってやつがどうも苦手すぎるのだ。
というか、いまや「私の仕事の値段」のことでさえ困り果てている有様だ。
リアルに思っていることを吐露すると、リアルな胃液のほうを嘔吐しそうになるぐらいだったが…最近はちょっと思い直している。諸行無常なのだから、昔の基準で語りすぎてはならんのだろう。それにどの業界でも起こっていることではないか。ドライバーさんの問題なんてその最たるものだと思う。最近では公共交通機関の運休や減便というところにまでその影響が波及しているではないか(前提となるお話抜きで語ってすみません。過去記事でしばしば語らせていただいております)。
売り手と買い手のあいだでの取引なのだが、需給のバランスとはまったく乖離して買い手(つまりは事業者)の言い値で決まっていくことが多い。それでいて「ヒト不足です」と言うんだよな。それはそれでともかく、なんで私の値段が暴落してるのに税金は上がっていく一方なのかと。ものわかりのいい国民だなあ…とつくづく思う。
一度ぐらいは海外で生活してみたほうがいいのだろうか。いや、海外のほうがよほどシビアなのだろうな。日本は中途半端にマイルドだから、怒り出せないところがあるように思えてならない。
権利を主張するよりも、和を乱さないことが重要視されるというのがこの日本。
まあ人並みに稼げるようになってから考えようと思う。
早く人間になりたい。