見出し画像

いまどきの勧善懲悪 (それホントに善? それホントに悪?)

駅前のコンビニで飲料を買った。1人だけ待ってからレジへ商品を持って行った。とてもだるそうな風な中年男性だった…多分私より若い。無言で商品のバーコードを読ませ終えて、私が「交通系で」と言いながら手にしたスマホを示すと、店員さんは黙ってレジを操作して読み取り機をONにする。私はスマホを読み取り機に置いて、ピピッという音を確認する。レシートいらないとも言ってないのに、店員さんはレシートを黙って白い箱に放り込む。結局、彼は一声も発することなく私との取引を終えた。

いちいち腹が立つのってなんでだろう?


やれ店員が横柄だ、いや客が横柄だといった理由で〝炎上〟することが多い世だ。
炎上?…いや、だからなんでSNSという土俵へそれ持ち込む? 苦言があるのなら本人に言え。SNSの怖いところは、一方の言いぶんだけで誰かが悪者にされ袋叩きに遭ってしまいかねないこと。それから無関係な輩が煽り立てることだ。

喧嘩ってのはサシでやるものだ…とはいうものの、最近は殺気立っている人が多い
ものだから(いや、この私だって他人からそう見えてしまってたりするかも知れない)喧嘩なんてしないほうがいい。

でも本来、身内とのあいだ等での軽い口喧嘩程度のものは起こるべくして起こるものだと思っている。感情ってのは適度に表出しなくては体に悪い。

喧嘩ではないんだけど、詩ちゃん(柔道の阿部詩さん)の号泣にいろいろケチつける人がいたりするけれど…いまどきの日本人の感情は抑圧されすぎだ。感情を表に出さないことをよしとタレントがテレビで喧伝するのってある意味、権力からの去勢だとも言えなくもない。それほどに罪深いことだと個人的には感じている。

詩ちゃんの一件については、カメラが舐め回すように追いかけること自体に悪意を感じた。カメラを回していたのがフランスのクルーだというのなら、国内では映像をスタジオに切り替えればいい(我々は詩ちゃんを見る立場ではなく、詩ちゃんと一緒に悔しがる立場だろ?)…ご本人も心苦しかろう。
何度も何度も面白おかしく日本国内の地上波で流したり、タレントや政治家がテレビやSNS使って批判するなと申し上げたい(腹の内で思うだけでええやん)。

それは置いといて…冒頭の場面で私が苦言を伝えたらどうなっただろう?
彼の雰囲気から想像するに、即座に舌打ちが返ってきただろうな。なんせクソ暑い。仕事をするのもさぞかしだるいことだろう。

こんな日に仕事なんてやるものではない。求人の貼り紙が出ている。働くその人の時給もバレバレ…悪いけどこんな日に働かされるには見合わないほど安い。もっとも、かの人が店長だとか本部から送られた幹部候補生だとかなら話は別だけど…もし買い物するたびにいちいち身分を示せなどと言ったなら、そんな私は面倒くさい客以外の何者でもあるまい。

客観的には店員の接客態度は〝悪〟だといわれてしまうかもしれないが、わざわざ揚げ足をとるように記事にしてしまっている私こそ〝悪〟かもしれない。別にこのことにおいて私は自分が〝善〟でありたいとはこれっぽちも感じていない。

今度は私自身に問うてみる。オマエはそんなに挨拶や声出しが欲しいのかと。

人はどうして他人に、自分への挨拶とか声出しとかを求めるのか?

承認欲求なんだろうか…でも飲料1本百数十円也ぐらいで殿様になろうってのも滑稽すぎやしないか。だったらセルフレジに行け。セルフレジは感謝など示さない。音声が出るからありがとうとは言ってくれるけど、あれは単にそう設計されているだけだ。

そもそもマニュアルに則って接客している生身の店員さんと、それほど深い感情の交換をやっているわけなんかではない。だったら挨拶や声出しの有無なんて、所詮はどうでもいいことだろ? どうしたんだい、自分よ。

厄介な〝イチャモンつけたい〟願望 (私も持ってます)


ひょっとして俺、世間を監視して、マニュアル通りに対応していないものを見つけてたしなめてやりたいとか思ってる?

でもそれ、まんざら外れてもいないかも知れない。怖っ。

マニュアル通りの行動か否かを監視して、そうでなければ注意してやる…的なその感情。まるで子供のころの「先生に言いつけてやる」って物言いみたいだ。

実はそれ、生得的なものか後天的なものかは別として…あるんだろうね。子供のころって実際、そうやって大人という権威におもねっていたわけで。いやだなあ。

心はただ街中を歩いているだけでも、感覚に反応していろいろ動く。
オネエさんキレイだなとか、ジイさん醜いなあ(いや明日は我が身ですから)とか…実にまあいろいろな風に。それ自体は止めようがないし、ときには口外できないほど残酷なことを思ったり(あるいは思われたり)しているはずだ。

そんな風な気ままで下品なチャンネルの中に、おそらく「正しくないものを咎めてやりたい」というものも紛れ込んでいるのだろうと。これは仕方ないのだ。あとはそれを口外するか、あるいは心のなかにしまっておくかだけのこと。

言いつける先が変わった


言いつける先が、先生(兄弟喧嘩なら親)からSNSへと変わった。

人が何人か集まると下品なことも含めて、それを開陳してアイロニカルに笑いあったりする。こういうのは昔からあった。かつてはそんな井戸端会議の範疇で済んだものが、ネットを通じて開いた世界でつぶやく。すると同調する意見がくる。むしろ格好の餌食を手に入れたといったふうだと思う。かくして、当事者でないものまで乗っかって何か・誰かを叩く行為が始まる。

人は権威から誰かが罰されることを見て、快感を覚えるようにでもできているんだろうか…できているんだろうな。

水戸黄門が印籠を示すと悪者がひれ伏す。多くの時代劇がそういう構図だし、ザ・ハングマンだってそうだ。勧善懲罰もののドラマを日本人は昭和から好んできた。
ただ世界を見渡すと…例えばグリム童話は案外そうでもないらしい。童話なのにずるいものが勝ってしまうこともあるんだとか(ただバカが勝つことだけはないみたいだ)。

勧善懲悪という大義名分。レバレッジを加えて罰し、悪人(もしくは悪だと吊るし上げられてしまった善人)がフルボッコにされる。そりゃあ水戸黄門だって悪者は斬られるわけだが、ドラマじゃないんだから斬り殺してしまってはダメだってば。

醤油差しをぺろぺろした少年は無事なんだろうか。無事でいてほしい。

かつて人の噂は75日でなくなったものだけど…


ネットというツールのせいで人の噂は75日で消えるものでなく、デジタルタトゥーとして未来永劫残ってしまうものと化した。

権威と結びついたハラスメントのようなものは、あるときはしらばっくれたり、またあるときは黒塗りされたりする。なのに市民のそれはアーカーブされ、あるとき突然それを持ち出されて恥ずかしい思いをさせられてしまったりもする。ひどいものだよ。

そろそろいい加減にしておけば?と思う。
反省し禊をすませた市井の人に関しては…75日目にちゃんと忘れてあげてくれ。

〝みんなやってるから〟が免罪符ってひどすぎないか?


同調圧力と同じく,同調する場の空気に埋もれて当事者でもない人が炎上に燃料を投下し、社会的制裁をブーストしているというこの状況。
見ていて心底胸クソ悪い。

思うに卑怯者があまりに多すぎるのだ。
サシで喧嘩しな。周りは黙ってな。
もう一度言う。周りは黙ってろ。

最近は「メンタルお化け」がもてはやされている。そんなもの単に厚かましいだけだろと。募金に着服があったことが発覚したのになおも続く24時間テレビにせよ、内閣支持率がここまで地を這ってなお続いている岸田政権にせよ。人はフミオさんのことを「メンタルお化け」と呼ぶ。いや、そうじゃなくて適正に責任とるべきでしょうが。なんで権力者がこれほどにも〝自画自賛〟する人だらけなのかと。謙虚が美徳だった日は一体いつだったのか。

おそらく社会のほうは、炎上万歳だろう。
炎上すればするほど見る人が増えてものが売れるってふうだから。

もうダメかもしれないね


いや、決着のつけどころに関してまったくイメージがわかないのだ。

追い詰められた人の果ても、追い詰められていない人の果ても死なのだ。
死ぬことは願わくば、衰えながらフェードアウトしていくものでありたい。
たかがコミュニティー内で強いってだけの連中に「追い詰めて人を殺す」なんてことを断じて許してはならない。肉体を衝撃で破壊する自死はもってのほかだと感じている。誰もそこまで残酷な目に遭って一生を終えなければならないほどの人なんていないと思うのだ。

模範になるべきものが逆に、自分の利得のために進んで悪いことをやっている。
この状況が向こう何十年か続くというのなら…たぶんもうダメだと思う。

どのみち生きて死ぬだけだ。少しでもいい景色を見てみたいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?