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哲学カフェ:多様性の拡張に限界はあるのか?

こんばんわ。

今日は、大切な仲間と、Zoomで哲学カフェをしました。

哲学カフェ好きのリーダーが主催をし、定期的に集まっています。

15歳から30代後半まで、年齢層も幅広い集団ですが、居心地の良さを感じています。

哲学カフェとは?

哲学者マルク・ソーテは、1992年にフランス・パリの4区にあるカフェ・デ・ファールで初の哲学カフェを開きました。

毎週日曜日、11時に10名程度、はじめは友達を中心に人を集め、哲学討論をしていたら、どんどんメンバーが増え、200名を超える盛り上がりを見せました。

一般市民が参加する討論である、という点にこだわり、ありとあらゆるテーマでの議論が繰り広げられました。

日本では、2000年に大阪大学大学院の関係者が中心にスタート、今では日本全国さまざまな場所で、哲学カフェは開かれるようになっています。

テーマについてその場に居合わせた人たちと話して、聴いて、考えるというシンプルな営み

書籍『哲学カフェのつくりかた』紹介文より抜粋

今日のテーマ

今日の哲学カフェは、二部構成となっていました。

前半のテーマは、「芸術」、後半のテーマは「多様性」。

はじめは、思いのままに、参加者各自が持論を展開するのですが、

不思議なことに、いつの間にかこの2つのテーマがどんどんリンクします。

多様性の拡張には限界があるのか?という問いは、最年少メンバーから投げかけられたホットトピック。

マジョリティとマイノリティの割合は、いつの時代においても一定なのではないか、という仮設が浮上します。

それに対し、働きアリとサボりアリの割合から見る人間の本質に切り込む意見が出ました。

生物の作り出す現象は、科学的な何かのルールではじめから決まっているのかもしれません。

そこから、従来、人はバラバラだという意見も現れます。

タグ付けされて分類されているだけで、その仕分け方が時代によって変わってくるのだ、と。

判断基準が時代によって変遷しているだけで、新しく感じることも、実は昔から存在していいうた。

このあたりが、今回の着地点でした。


ハイコンテクストの関係性における哲学カフェ

私がここで特に明記しておきたいのは、この哲学カフェの参加者は、「いちげんさん」ではない、確かなコミュニティの一員だということです。

これまで、私は、全員初対面の哲学カフェに参加したこともありましたが、そこでの感覚と、仲間同士で開く哲学カフェとでは、感じるものが大幅に異なることを知りました。

初対面同士だと、お互いの背景を知らないからこそ、ある意味無責任に言い放つことができるという面白さがあります。

それに対し、お互いがもうすでに長い付き合いの友人同士だと、次にどんな反応をするのか、想像しながら発言をしている自分がいるのです。

それは、コミュニティの結びつきをさらに強くするような効果がある気がします。

友人同士で開く哲学カフェは、お互いの考え方を定期的に承認し合うという要素が加わってくる。

それが、居心地の良さを作っているのではないか。

ただし、バランスが崩れると、それはいつの間にか、牽制の場になってしまうことが予想されます。

だからこそ、哲学カフェは、オープンスペースであるカフェで開かれているのかもしれません。

閉じられた空間ではない、風通しの良い場所で行う哲学討論。

まだまだ奥は深そうです。

おわりに

最後に、今日の感想を簡単にシェアします。

多世代で意見交換をするコミュニティを作ってみたい。

自分の生活に問いかける探究活動に興味津々。

お互いのことを更に知り合うことができた、場の豊かさ。

テーマへの想いをつむぎあい、自分が気づかなかったことを認識できる。

それぞれ持論のある人が集まる哲学カフェ、予想通り面白い。

楽しみなことがたくさんある生活。
ありがたいことです。

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