なぜ今、うさぎ島でのスタディツアーを準備しているのか
おはようございます、さーやです。
今日も快晴。
まだまだ暑い、と思いつつ
空を見上げると
うろこ雲に秋の気配を感じます。
今日は、今準備しているスタディツアーのことを書いてみようと思います。
タイでのアテンド
私は以前、ボランティアコーディネーターとして、
大学生や企業向けのボランティアプログラム・
ワークキャンプの企画やアテンドを生業としていました。
これは、いまでも忘れられない、タイでの出来事です。
私の勉強不足が引き起こしたものでした。
ボランティアコーディネーターをしていて、
私が何よりも夢中になっていたのは、
「ライブ感」のある予測不能の出来事。
ガチガチに固められた工程表では実現することがない、
その場のタイミング、情報、協力者、など
条件が偶然合致したときだけに起こる
特別な体験。
再現不可能な体験がその旅の醍醐味だ、と
粘り強く交渉を続けながら
その時にできる一番良い時間を
コーディネートすることに
私は、情熱を持っていました。
当時滞在していたのは、タイの南部。
ソンクラーから車で数時間移動した
のどかな場所がプロジェクト地でした。
私たちはここで、
小学生を対象とした環境教育や
環境整備活動、
マングローブの植林などを行うことになっていました。
しかし、連日の大雨で、
なかなか植林作業ができず
室内での活動が中心に。
これではせっかくタイに足を運んだ
学生ボランティアさんたちが
ガッカリしてしまうのではないか。
せめて、現地コミュニティと交流や
情報交換などができる機会はないものか…
そこで、私は、
現地コーディネーターと調整をし、
村の長老の家を訪問する約束を
取り付けたのでした。
「昔話」は戦下の出来事
夕食を済ませた私たちは、
ワクワクしながら長老の家に向かいました。
昔話を聞かせてほしい、と
依頼をしていたので、
ドラゴンの話?天女?と
浮かれていた私。
しかし、そこで始まったのは、
旧日本軍がこの村に攻め込んできたときの
思い出話だったのです。
長老がこの話を語り始めたとき、
私はすぐに背中から汗が流れるのを感じました。
旧日本軍の進駐と現代の私たち
お気楽に「伝説の話かな」と考えていた私は
国際ボランティアのコーディネーターとして
タイに足を運んでいましたが、
長老が戦争の話をはじめるまでは、
日本は昔、タイと戦ったのだと
想像することすらしていませんでした。
さらに言うと、私自身が、
第二次世界大戦中、タイに進軍した「日本」から
やってきたのだ、という自覚は全くありませんでした。
後日、調べてみたところ、
ソンクラーはタイの中で
最も日本軍の影響を
受けていたということがわかりました。
自分の無知さが悔やまれます。
環境教育やマングローブの保全のために
国際ボランティアとして足を運んだ私たち。
長老は今、日本や私たちのことを
どう思っているの?
そう聞くと、
と穏やかに返事をしてくれました。
これが、私のタイでの実体験です。
近現代史で取り残された、加害者教育
私は今HIROSHIMAに住んでいます。
被爆について学ぶ機会はたくさんありますが、
まだまだ知らないことばかりだと
いつも思い知らされます。
ですが、それ以上に知らないのは
日本が「加害者側だった」ときの記憶。
ここに目を向けることによって
もう一度、世界と向き合い
つながっていけるのではないかと
強く思っています。
これが、今回、
広島県竹原市の大久野島を
スタディツアーの旅先に
設定することとなった理由です。
おわりに
これまで、ギルド型リモート組織に所属し、
コミュニティを作って
働いていた私にとって、
大きな転換期が来ているように感じます。
対面→オンライン、の流れの先は、
オンライン→対面に戻っていくのか、
オンライン→新たな形が作られていくのか。
多様な選択が時代を作ります。
問い:足を運ばなければできないことの本質は、一体何なのか。
スタディツアーを行うことにより、
この問いについても
仲間たちと一緒に、
しっかり考えていく時間を
持つことができたらいいなと思っています。