なぜ私たちはこんなにも、「双方向」に恋焦がれるのか
おはようございます。
今日は、まだまだうまく言語化できていない、双方向のことを考えていきたいと思います。
以前書いた、こちらの記事の続編です。
リアルでは、オンラインでは、で逃げちゃダメだ
共同編集の面白さについて、私のコンセプトトークを聞いた友人から、ある時こんな指摘をうけました。
自分では全く意識していなかったことだけに、思わずうなってしまいました。
いつかずっと過去の恨みつらみを、「リアルではこんなことがあった」、だけど、「オンラインならこんな風に改善できる」と、そんな形で私は晴らそうとしていました。
オンラインだから、共同編集ができる。
それは、嘘じゃない。
でも、リアル(オフライン)でも、できていたこと、でもあったのです。
要は、一方通行の情報交換なのか、双方向のコミュニケーションなのか。
そこに、気づいていなかったのです。
例えば、セミナーを開催するとします。
ともにブレーンストーミングをして方向性を定め、一緒にアイデアを練り上げ、進行表を作成する。
役割分担を決め、手分けをしながら準備しつつ、進捗状況をシェアしながらお互いの状況を確認する。
参加者の陥りやすいポイントを何度も見直し、言い回しや微細な配慮を洗練、研鑽していく。
これは、必ずしもオンライン、オフライン、でくくって話すことではありません。
場づくりのことを頑張っているたくさんのファシリテーター。彼らが、どこで活動しているか、それだけの話だったのでした。
この、自分のマインドセットに気づくと、とても恥ずかしい気持ちがこみ上げてきます。
思い込みを思い知る、その先に進むことは、自分一人では到底できないことなのでした。
双方向のコミュニケーションに恋焦がれる理由。
これにまつわる私の原体験は、義務教育にあったように思います。
結局のところ、社会構造によって虐げられていた、そのように自分自身が思い込んでいて、そこへの反発が今もなお昇華できていないのです。
では、なぜ私に共同編集が必要なのか。
オンラインでつながりながら、一つのドキュメントを編集できるようになったこと、それは私にとって、大きなパラダイムシフトの瞬間でした。
オンラインの共同編集は、私の3つの願望をかなえてくれました。
1:どこにいても好きな仕事をしたい
2:仕事の拘束時間をなくしたい、または短くしたい
3:機械的・事務的コミュニケーションを削減したい
このことが実現しなかったら、きっと今でも私は消沈していて、日々の生活に満足をすることができなかったように思います。
今、私は中山間地域、町内が全域過疎地域に指定されている、高齢化率50%の地域に住んでいます。
ですが、住んでいる場所に自分の仕事やプロジェクトへの選択肢を狭められずに、こうして日々過ごすことができている。
それは、明らかに、テクノロジーの進化がなせる業でした。
顰蹙を恐れずに言えば、コロナ禍において、さらにリモートワークが一般的になったことは明らかに追い風。
「都会に住んでいる人たちだけが手に入れることのできる、面白い仕事」というものは、もうだんだん少なくなってきているのではないかと今、私は感じています。
短い時間をつなぎ合わせて、補い合いながら働くということ
また、2児の母である私は、日々、予測不能な出来事を待ち受ける生活を余儀なくされています。
ちょっと大げさな書き方ですが、ごく一般的な母親の日常です。
子どもを家で見ながらの作業では、まとめて十分に仕事をする時間が確保できないことも多いです。
私は子どもと一緒に過ごす時間も大事にしたいので、自分で仕事と育児のバランスを調整できるということもプライオリティ。
独立して、まだまだ不安なこともありますが、自宅で隙間時間を使って作業を進め、リモートでチームの仲間と仕事を進めることができるのは、本当にありがたいことです。
2021年4月に「ユニットだからこそ」を結成した時に、考えていたこと、それは今も変わっていません。
ユニットだからこその手法では、物事は少しずつしか進めることができません。
ですが、少しずつでよければ、確実に前に進めることができます。
共同編集の意義を発信し実践すること、それに賛同する仲間づくりを進めていくこと。
このことが、私の人生を変えた、といっても過言ではありません。
おわりに
間もなく、1月31日より、だからこそ講座第3期がスタートします。
私の共同編集についての想いに共感してくれたメンバーが、現在最終調整で打ち合わせを続けています。
だからこそ講座 第3期 CANVAとJAM Boardでスキルゼロからクリエイター、こちら、まだ若干名席が空いていますので、ご興味をお持ちの方はぜひご検討ください。
https://miraifes.org/dtl/dakara2/