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言の葉譚<番外編02>本来の仮名遣ひの魅力とは?
仮名遣ひのはなし
此処(note)に書くに至るまでに逡巡もあったのだが、程々の文字数を熟すについてはすでにHPでの経験もあり不安はなく、何と、仮名遣ひを如何すべきかで怯んだ記憶がある。だろうかだらうか、しましょうかしませうか、此処の読者に如何に斟酌すべきを決めかねたのだ。
しばしサイトを逍遙してかう思った。此処がネットには稀な書き手と読み手の巧みに織り混ぢる場所のやうであり、ネットに有り勝ちな浮薄な風が一向に感じられぬ。真面目にものが書ける場だ、と直感するや、仮名遣ひの如何が即座に決まった。世に云ふ歴史的仮名遣ひ、今風な仮名遣ひには旧と思しき昔ながらの仮名遣ひを使ふに如くはない、と。HPを立ち上げた時も今風に書き始めはしたが、彼処は所詮自前の語り場だからとて、早い時点で長年親しんだ昔の語法に切り替えてゐた。仮名遣ひの煩ひが消えてか、HPの語りは筆の滞ることなく運び、今では我田引水ながらど素人の域を越えると他人様に評されるまでに豊かになってゐる。
然しながら、今風と揶揄するなかれ、「現代仮名遣い」こそ日本語の仮名遣ひぞと言ひ募る向きもあらうかと、本稿では吾輩が何故に本来の仮名遣ひに依るか、その理由をひと通り語り尽すべし、と思ひ立った次第。
先ず、吾輩の思ひの原点を指摘して論点の座標を明らかにさせて頂く。
文に散と韻があるやうに語りにもそれがあり、由来書きものは語りたるべしとすれば、すべて書きものは散と韻たるべし、と。吾輩はものを書くとき虚心坦懐、常に言葉選びの手掛かりに「音楽」を思ふ。しょうとせずにせうとする裏には、せうに語幹を引き立てる柔らかな音を聞くからだ。云うとせずに云ふとする理由は、ふにはうにはない云を際立たせる弱音が聞こえるのだ。
吾輩の思ふところはかうだ。
漢字から万葉仮名が案出されるには動機があった筈だ。諸論あらうが、吾輩は兼ねてから信じて疑わないそれがある。文字がなかった縄文の頃、語り言葉を持ってゐた日本人には外つ国語である漢字では即語れぬ音があった。その音を文字化するために漢字を表音記号に練り上げたのが万葉仮名であり、世に云ふ仮名遣ひは古の日本語の音が隠然と生きてゐる、と。ちょうちょうならぬてふてふの裏にこそ、古の日本語の音が隠れてゐると思へてならぬから、吾輩はそれが聞こえる仮名遣ひを用いて綴ってをる。
それを読まされるものの身になってみよ、と突っ込まれる向きもあらうが、そのご仁には心を鬼にしてお諭しさせて頂かうか。言の葉は所詮心情の吐露に他ならぬ、ならば、心の臓が脈を打つ様子を思はれよ、口先ならぬ心の臓に発する言の葉はごく自然に「音」であり、それが集まり来って意味するところは旋律であり音楽であるはずだ。
吾輩は言葉を綴るとき、例外なく言の葉の囁きを聴く。意味が同じ言葉なら今流れてゐる旋律に溶け込むものを選ぶ。聴こえなければ、筆を置き黙想する。黙想しても聴こえなければ、指を休め心を空しくして静寂に沈む。この仕草はメタフィジカルに思へて些にあらず、言の葉は思ひ浮かんでこそ摘むべきで、手練手管で捻り出すものにあらず、この言の葉譚の本義は将に此処にある。
此処でいま進捗しつつある創作競作に吾輩は、「不問語り」なる駄文を一本献じてをる。老い先限られた身が聞かれもせずに語る心境は、そのものが心の臓の音であり、昔ながらの仮名遣ひが漲ってをる。この駄文、密かに流れる音どもを具に聴き取れる選者の在不在で行く末が定まるなら、仮名遣ひの功罪果たして何処にありや、嗚呼。