天の基準
マタイの福音書25章31節以降に、有名な場面がある。イエスが復活のキリストとして再び世に来るとき、いわゆる教義学でいう最後の審判の場面である。
大変有名な場面だ。「われこそは天国に入る!」と自信満々にイエスを見つめる者たちが地獄へ分けられ、「自分にそんな資格はない、結局、不十分だった…」と神を畏れ、キリストを敬い、目を伏せ、裁きを戦慄して待つ者に佳い知らせが語られる。
天国へ入る者は誰にも分からない――そういう例話として、この記事を読んでいた。仕事から戻り、シャワーで身体を温めながら、ふと気づく。あぁ、これは奉仕において、信仰において、結局自己満足に終わった者か、そうではなく実際にやった者かの違いなんだろうなと思った。
口で語るのは簡単だ。ペテロもイエスのために「死にます!」と言いながら、結局、一晩に三度も否んだ。のちに復活したキリストにその言葉への気づきを促されている。
同様に、マタイの福音書が語るように貧者への福祉や社会奉仕を掲げること、それを口で言うことは容易い。大見栄を張り、目を輝かせて自分に害が及ばぬ範囲で、医療福祉や社会の隅へと追いやられた人々への奉仕を行う者は多い。まるでゲームの実績解除やログイン・スタンプのように、彼らはそれを考えている。美しい、よい思い出を作るだけ。些少たりとも人々の暮らしの現実に思いを寄せることもない。
しかし実際に動き、働く人々は違う。僅かでも挺身した人々は、そのようには感じない。貧しい人々の現実を知り、その改善のために骨身を折る。しかし、それでも何も変わらない。変えられなかった。挫折と蹉跌の果てに、自分には何もできなかった…との思いを得る。それゆえ、来臨のイエスを見て恐れて目を伏せる。たしかに福祉の仕事をしたかもしれない。ボランティアに参加していたかもしれない。しかし、神の御前に通用するとは到底思えない。それゆえ、自らの傲慢と無慈悲さを思い、目を伏せざるを得ない。
ところが王たるイエス・キリストはいう。自らの賢しさを盾に神と自分を欺く者には目もくれず、綻びと破れを知り、自らもまた滅びに触れた者たちにいう。「わたしの父に祝福された者たちよ」
驚き戸惑う人々に気づきもせずに、自らを神の位置に上げる者たちはいう。「私こそ、天国にふさわしいはずではないか、なぜ私が数えられていないのか」。しかしキリストは不動明王や閻魔大王のごとき怒りをもって吐き捨てる。「のろわれた者どもよ」と。
自らを省みることなく、他をふみにじりながら生きる者。労働できるにも関わらず、不要な負担を人々に強いる者。何ひとつ手を動かさず、口先舌三寸だけを動かす賢しらな者。神は彼らを呪い、報いを与えられる。それは「悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火」である。
しかし自らを省み、自分が他をふみにじっていることを知りながら、なお踏まれることを寛恕する者。可能な限り労働し、むしろ隣人の負担を背負う者。手を動かし、愚かであれ建徳的なことばを心がける者を神は祝福される。
天の基準は、いたってシンプルだ。創造のはじめ、神が人々に命じたことはシンプルだった。労働、生殖、礼拝である。なぜなら、その調和こそが人類の社会が三位一体の神の似姿となるために必要だからだ。
天の基準は、これらを愚直に行う者の失敗、罪、苦、悪から彼らを救う。一方、自分には罪、苦、悪がないと高ぶる賢しらで狡い者を滅ぼしてしまう。ふと、そんな思いが来て、シャワーの温もりと共に流れていった。月曜祝日の午後である。夕方からも仕事が詰まっている。
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