遍路歴程:A Pilgrim's Progress
20年前の旧交が戻ってきた。互いに大人になったから、なかなか時間が合わない。それゆえ旧友のため、ここにぼくの天路歴程を記す。たかが20年ぽっちの敬虔と研究の挫折、その痕跡。準備不足のまま厳冬期のエヴェレストに挑んで、そのまま氷漬けになった誰かのミイラが示す、デッドエンドへの道標。本記事タイトルが「遍路歴程」と名作との一文字違いな理由は、不朽の名作になぞらえるのは面映ゆいのと、日本人だから宗教的探求の名は、やっぱりお遍路かな…と思ったからだ。
以下、旧友以外にどんな需要があるのか不明ながら、ぼくの探索の道筋を残し、まとめを置いていく。
要約すれば、まず、ぼくは「聖書とは何か」という問いに盲執的に取り憑かれていた。もともとアスペ傾向のつよいオタク気質だったと思う。その問いに人生を傾けて切り崩しながら、その問いを追いかけ続けたぼくは、ついに奈落へと足を滑らせてアビスに落ち込んだ。人生が崩落したのだ。
結果、一般的な教会で語られる、聖書・キリスト教・教会・創造・堕落・贖罪・終末・完成についての理解を相対化し、自分なりの理解を持つようになった。その深淵への旅立ち、または滑落。それが、ぼくなりの天路歴程であり、信仰の旅路である。
始まりは2018年夏だった。批評誌『アーギュメンツ#3』に「トナリビトの怪」を寄稿したところから始まる。「トナリビトの怪」の要約とあとがきは、以下リンクから読めるので一読いただきたい。
遅れた解題とあとがき http://www.kirishin.com/2021/06/16/49011/
平たくいえば「トナリビトの怪」は、ぼくなりのキリスト教理解として「怪談キリスト教」という語彙に辿りついた話である。キリスト教を怪談としてみなすことは「日本人にとってキリスト教は娯楽とホラーにしかならない」という指摘でもある。これについては以下に記した。
ダニエル書の思い出 https://note.com/wwwww/n/n08341f308398
それを出発点として、あらためて聖書とは何かを学問的にも信仰的にも真剣に考えるようになった。そもそも学術的に「聖書とは何か」に答えることは難しい。
死海写本のお話 https://note.com/wwwww/n/n75771223d4cf
学術と信仰を両手に抱え込んだぼくは、信仰を得た17才の頃とは違っていた。当然といえば当然だ。ほのかな切なさの残り香とわずかなノスタルジー、しかし通り過ぎてきた確かな時間が、いまのぼくの読み方をつくったのだ。
naiveだった頃の読み https://note.com/wwwww/n/n3e6b7d7fed46
折りしも、京都漂着以来の恩師にして目上の友人、手島先生の論考の校正を手伝った。結果、先生が人生をかけて見出した問い、「聖書を聖書によって読むとは如何なることか」を少し知ることができた。
聖書を聖書によって読むこと https://note.com/wwwww/n/n829ad61bf6e8
学問と信仰を誠実さへの盲執によって衝突させた当然の帰結として、一般的な意味での聖書信仰や聖書主義には、到底満足できなくなった。クリスチャンのマナーとして他者を批判する前に自己批判を徹底した結果、幼い日のぼくの信仰は解体し、雲散霧消した。
聖書主義へのレクイエム https://note.com/wwwww/n/n725fec805f2b
そして再生がはじまる。キリスト教の主要教理について、自分なりの理解が再構成され始めた。
原罪について https://note.com/wwwww/n/n5ee1d97e31ec
神と人、永遠と時間、超越と内在。絶対と相対の狭間で波乗りしながら、聖書、キリスト教、教会に関する事柄と言説を再検証し始めた。
聖書とナニナニ https://note.com/wwwww/n/n934f119fdb77
そして、よくも悪くも自他にある一貫性は、結局、個体として存在していること、単純に生活者として生きてることだけなんだなと思った。
宗教における誠実さについて https://note.com/wwwww/n/n5c00cf80fb13
そんなわけで、自分なりの信仰がやっと確立したぼくは教会的な意味で人里はなれた場所で静かに暮らすようになった。
聖なるもの https://note.com/wwwww/n/n41e013fa3afc
すなわち、ぼくなりの天路歴程は、こうして始まった。奈落の底から這いあがる試みなのか、または、そのまま、そこで暮らしているのか。それは他者の評価なので気にはしていない。ただ折りにふれて宛先のない手紙を書いている。
ぴるぐりめいじ https://note.com/wwwww/n/ne60e89142d5c
こうして、ぼくは便利な語彙にたどりつく。「アブラハムの宗教」である。この語彙が信仰の実態として、または動態として何を示すのか。抽象的に過ぎる。しかし、事実として、ぼくはアブラハムの宗教の信徒なのだ。
アダムとアダパ、アブラハムの宗教 https://note.com/wwwww/n/n13e81d96f7f7
そして、アブラハムの宗教の信徒として考える。日本とキリスト教はどのように接合するのか。「日本語キリスト教」とは何を意味するのか。
トンビと鼠とキリスト https://note.com/wwwww/n/n93d63a73b229
日本語キリスト教の始まりから終わりへ。鴨川の水面を眺めながら、フローテを起点に、2045年、戦後百年までの日本キリスト教史について思いを馳せた。
私家版・日本キリスト教史(1374‐2045) https://note.com/wwwww/n/nc53db04c2256
同様に、鴨川のほとりでアブラハムの宗教が現生人類の神に関わるならば、それ以前の人類についてはどうかと考えた。
ネアンデルタールの神?――「メタ性」獲得の物語 https://note.com/wwwww/n/n6378a3544d45
また人類史と宗教の発生についても考えさせられた。
宗教の発生と食に関するメモ https://note.com/wwwww/n/n86070b679554
そんなこんなで、ぼくは自分の使命、仕事にやっと気がついた。教会の外で、キリストの内に、キリストと共に。神の五指が地球をつかみ、その指の隙間からこぼれていくものたちと共に。いつの日か、ぼくは、イエスの後ろで、太平洋弧で海より立ち上がる。
信仰の仕事の話 https://note.com/wwwww/n/nb7a79baa5a72
そして「怪談キリスト教」のための個別具体的な研究と調査が始まった。
「守護霊」「前世」の初出は? https://note.com/wwwww/n/nc038e26bb447
人類における宗教の発生、アブラハムの宗教の根源、そして日本の宗教性の始原はどこにあるのか。文献精読と併せて、今後はフィールドワークが増えていくと思う。
原始の神社をもとめて https://note.com/wwwww/n/ndae06d55f107
以上、ぼくの天路歴程である。あくまで現時点の話。
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