神の博打と天の帳尻合わせ
遅れに遅れた博士論文の修正稿を提出した。半年ほど前に教授方より修正指示を頂いたはいいが、多忙に多忙を重ね、心の隅にありながらも手をつけられなかった。学恩ある先生方に大変な迷惑をかけながら奇跡的にステータスは諮問待ちとなったので、ここまで来ると合格したいものである。とはいえ、そもそも遅延したのは自分のせいなので、どんな結果が出ても、ただただ反省するしかない。
さて、天国のたとえ話である。イエスは語る。
中高生のころから聖書を読んでいて、いつもこの話を聞くたびに「理不尽だ」と思っていた。きちんと元金は返している人が非難されている。不公平だ。しかし初老の身として読むと、なるほど、と納得する。
まず主人としもべの関係性を前提しなくてはならない。主人が不在の間、タラントを使い尽くし、与えられた分と同額を儲けること。これが、しもべの義務だった。そこに疑義を挟む余地はない。主人としもべの関係は変えられない。両者は対等ではない。
そう前提すれば、このタラントのたとえ話は理解しやすい。仕事には生産性がつきまとう。待ち時間の多い仕事もあるが、それでも何某かの価値を生み出していく。いま個人事業主として働くがゆえに、よく分かる。
たとえば企業が社員を雇う。期待されているのは、与えらえた環境において、価値を生み出すことだ。支払われる給与の時間だけ、そこにいて作業することは社員には求められていない。対価以上の新たな価値を生産すること、それが労働者に求められている。新たな価値を生み出していかなくては、企業全体は減収せざるを得ない。
減収の結果、結局、与えられた分を果たさぬ社員から外されていく。企業と社員は、その点、互恵的関係にある。公務員であれ、本来同様である。経済的価値でなくとも、公益性という価値をつくることが求められている。
もちろん、これは雇い主と労働者の話だけでもない。企業は社員に対しても給与とそれ以上の価値を提供しなくてはならない。具体的にいえば、勤務時間外での生活が豊かになるように取り計らうべきである。すなわち、企業と社員の間で、互恵的な信頼関係が前提されなくてはならない。
これを勘案するとイエスのたとえ話に出てくる1タラントを預けられたしもべは、たしかに怠惰である。彼には、主人への信頼は微塵もない。他のしもべは、主人の不在の間、主人のことば、その約束を信じて、自分なりに仕事に勤しみ、与えられた分をそのままに増やしてみせた。
指摘すべきは、しもべは与えられなくては何も持っていなかったことである。タラントは、そもそも本人のものではない。しかし与えられてしまった。そして与えられた以上、役割が伴ってしまう。タラントの多寡はある。しかし、どれも主人にとっては「わずかなもの」に過ぎない。それでも使い方の難しさ、ハンドルのややこしさがある。そして与えられた分を使い尽くした結果、与えられた分と同額を稼いだしもべが「忠実さ」を褒められている。
「よくやった、佳い忠実なしもべだ」――終わりの日、この言葉をイエスから聞けるか否か。それは、ハトのように直く、ヘビのように智く、自らの分を果たしたか否かにかかっている。
イエスが語る思想は「高貴なる者の義務」に通底している。しかし高貴な者だけが対象ではない。人類全員が、神から人生を与えられている。誰も自ら願って生まれたわけではない。気が付いたら生まれていた、生きていたのだ。自分の意志とは無関係に始まる人生は、やはり「与えられた」と考えるのが適切ではないか。
では与えられた人生を、どのように設計して軌道に乗せて、使い尽くして、為すべきを為すのか。しもべに求められていることは、恐怖と待機、保存ではない。信頼と行動、生産である。神の創造のわざの一端を継続的創造として担うことである。
「天に宝を積みなさい。」
この聖書のことばは、タラントのたとえ話のような経済理念に裏打ちされている。その経済圏は、死者と生者、不可視と可視の世界にまたがっている。与えられた人生を使い尽くして、与えられた分のとおりに天に宝を積むこと。天からの経済的期待値が各人に置かれている。それは否応なく、それぞれの人生を圧迫するものだ。なぜなら、与えられてしまったからだ。
文句をいっても仕方がない。信仰は賭けだとも言われるが、その意味で、三位一体の神は、ぼくらで博打をうっている。人が何かに期待をかけるとき、そこには、その何かへの信頼が先に来る。
そう、人生が与えられている事実は、そのまま神から人への期待値を示している。この人物に、これだけのものを用意すれば、きっと、彼/彼女なら、このしもべなら、これだけのことを為してくれるに違いない、天に宝を積んでくれるに違いない。競馬に有り金をはたいた男が馬を必死で応援するように、神はぼくらにタラントを分有させて応援している。
たとえば、そんな神の地上での賭けを担ったのはヨブだった。神はヨブを信頼し、サタンはヨブを疑い続けた。ヨブの人生は、神とサタンの盤面で弄ばれる駒のようにも見える。しかし、そこは問うても仕方がないのだ。与えられた分を受ける。それを使い尽くす。そこで天の宝を積む。それが神の賭け、イエスから自分の人生への信頼に応えることになる。
こうして天の帳尻合わせが行われる。考えてみれば、人間の世界でも、帳尻合わせは難しい。決算時期を区切れば、黒字も赤字も出る。では神の視点からみれば、どうだろう。世界の帳尻合わせ、天の帳尻合わせは、人間には想像もつかない。なぜなら、それは神の博打だからである。わかるはずもないのだ。
それゆえ、求められていることは、信頼に応えて信頼することである。神の博打、人生を与えられ応援されていること、天の帳尻合わせがあること。そのほか分からないことは、わからないと分をわきまえるしかないのだ。
仕事前に福音書のタラントのたとえ話を読み、そんなことを考えた。博士論文の執筆に、どのような神からの期待があるのか、ぼくにはまだ分からない。とりあえず、いまの自分にできることは、今月の収支の帳尻合わせのために今日も一日仕事にいそしむことである。いやはや。
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