(読書記録)箱男/安部 公房

「箱男」タイトルからも分かるように、それはダンボールをすっぽりかぶって生活している男の話である。箱男は心やさしく、無害である。それから、真面目であるために、妄想が人一倍行き過ぎる。

以前読んだ小説に「喜劇、というのは哀しみを表現している」ということが書いてあったのをおぼえていて、わたしはこの本を読み進んで行くとき「これって、喜劇なんだろうか?」ということが何度もあたまに浮かんだ。箱男を読む前のわたしは、タイトルのイメージだけで、多分、暗くて生臭い人間の生の話なんだと思っていたのである…けど、箱男、なんだかポップでもある。
まず、箱男は自身のあり方については少しも悩んでいないのである。あるのは、箱男として生きることで営まれる、普通より困難な生活。読んでいくうちに、箱男の書く手記、断片的な写真、回想によりどうしてこの主人公の男が箱男でいるのかを、だんだんと身につまされるようにわたしたちも理解していく。

この本、というか主には箱男が書いたのらしい文章を読み進めていくごとに感じるのが、箱をかぶって生活しているがゆえの身体的な不自由さである。
箱男の場合、箱=アイデンティティ=生活=家=思想、みたいなものでもあり、何かどこかいつもこれは、浮いていて恥ずかしい存在なのである。普段、わたしたちが何かするにしても一挙一動を頭で把握しているということがない、と思う。たとえば、足を上げる。手を下ろす。そういうのは知覚されるまでもなく消えていくようなあたりまえの動きである。けどもし、舞台の上で役を持った人間がやるのだったり、術後点滴に絡まれてるときにする動きだったりすると話は別で、わたし達はその動きすべてに対してなにか現実と自分の能力との整合性を求め出すのかもしれない。それは知覚されない現実世界との壁、それから自意識でもある。それを自然にやることは箱を被っている限り、不可能である。箱男はそんなふうに、生きることに消極的になってしまったがゆえに、一挙一動が何やら不自由で、へんに不愉快で、それから命がけでもある。そのへだたりは、ダンボールで出来た箱としてそこにある。
けど、箱男を見ているぶんにはそれにはたいそうな理由があるわけではない。精神的にも、思想的にも、いわゆるブンガク的暗闇というのははっきりと知覚されない。立派にはなりきれなく、どこかかなしい。ユーモア、といっても自嘲の範囲で箱男はまじめに生きているからこそ、わたしたちのあたりまえが揺るがされる。

こんなふうに生きることってあるだろうか。「箱男」から感じられるのはあたりまえには生きられない、…というかその必要性を感じていない、まるまんまのヒト。そんな人の何もかもに向けられているエゴ的なやさしさ(それは弱さと哀しみ、生きることのわがままな個別の欲にも通じる)、純な感覚であるような気がした。

この箱男が書く手記をもとに物語が進んでいくという仕組みは、ひとつのからくりだった。なにかを思考するのではなくその先にあるもう一段階意識を働かせる「書く」という働き、によってわたし達はその物事をメタ的に考えざるをえなくなるのである。それは人間にしかできない過去、現在、未来を混在させるような意識の作業で、そこから願望を取り除くことはなかなか難しい。「書く」働きはそのことに気付かされる。書くとき、わたしが事象を見ているのと同じ加減で、わたしを見ている。自分自身さえもそこで事象とともに同列で吟味させられることになる。ある意味、これは正確さと公平さを求めるのなら、マゾ的な行為のようにも思える。わたしは文章を書くときこの気持ち悪さに引っかかって何も書けなくなる(あるいは書きすぎてしまい収集がつかなくなる)ことがある。あ、そうだった。ひとも気持ちも、切り刻めないんだった。胸を張って言えるようなことは、表面上のこと、人に伝えたいことだけだった…もうその辺で、ナマの自分ではなく、社会的な自分になってしまっているのだと思う。この本のなかではこの、メタ的な視点を使って、書いている箱男が筆者になり、それから読者になり、箱男に戻ったりするという仕組みが途中組み込まれていて、そこが思考をグルグルにかき乱される感覚がして面白かった。この視点によってわたしたち見ている側は、自分の中の「見る視点」「見られる視点」を作者から狂わされ、そうしてそれ以後、何故だか自分も箱男になってしまったような気持ちでこの本を読むことになる…。

もうひとつ、大切な点は箱男というものの在り方として覗き見する者、それからされるものを浮き彫りにしてしまうという点がある。
箱男は、ダンボールに引きこもることで、世界を覗き見するものになった。誰にも知覚されず、自分ひとりだけの世界を持つ人格。そうしている間、自分の視界は世界に溶け込まず、世界に向かって開かれているのである。そして同じような願望を持つ男たちが、箱男としてまた出現する。不思議さ。そのなかでも生きていくうちに「出て行きたい」「こもりたい」という葛藤がひそむ。わたしは贋箱男になってしまった医者が、箱男から攻撃を与えられて箱にこもってしまった場面が印象的だった。箱男が、コミュニケーションを完ぺきに絶つ瞬間。ああ、傷付いたんだ。あたりまえに。と思った。人間はこんな挙動をしないのだ。ヤドカリとかのように沈み込み、静かになるという挙動をひとは身につけていない。それをすることで明らかに箱男の存在は浮いてしまう。そういう時は「怒るべき」なのだ。「正当化するべき」なのだ。
他人を遮断して、身勝手に、タバコを吸う以外の挙動で、けど誰にも迷惑をかけないでもっと、長々とひまをつぶす。箱男は、無理強いをしない。あくまでなんとなくそこにいて、自分自身と世間のあたりまえの共存をはかっている。そしてそうしている限り思考や欲求は限りなく純粋に、自由に広がってゆく。けど、箱男は特別な迷惑を人にはかけない。あくまで自分の中で、その感情は生き死にしていく。中に出てくる、人が見る魚の夢の話。そこで夢を見たひとは夢の中で魚になり、陸に溺れるのだという。そして、夢の中で死んでしまうと、もう目が覚めることはない。人間の意識と、外へ出ていくべきもの、こと、そういうことは箱男の存在によって、あやふやになる。


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WataL
ポエム、詩、短歌などを作ります。 最近歴史に興味があります。