日本列島のリッチな立地
飽くまで後知恵といえばそうなのだが、日本列島は他の世界諸国と比較して有利な位置にあった。なぜならば、
世界地図のいわば「右端」に位置していて、さらに右側(東側)から攻め込まれる恐れがない。仮に遠洋航海技術を獲得していても、日本列島の東側には黒潮という激しい海流があり、大きな軍艦を移動させることは20世紀以前は不可能だったから。
古代中世においては日本海も決して安全に遠洋航海できない海であり、九州から朝鮮半島づたいに、先進的な大陸の文化だけを取り入れることができたから。
欧州と比較して温かい温帯地域が多く、栄養の多いコメの栽培もできたため、大量の人口を養うことができたから。
12世紀には武家政権が誕生し、その後数世紀の内乱を経て、17世紀には安定した統一軍事政権が誕生し、内政に注力できたから。
といった点があげられる。
しかし、日本が下るにつれて航海技術は進歩し、大量の人員を遠洋航海で運べる軍艦も現れた。対外的には「鎖国」と呼ばれる体制を強いていた日本であったが、沖合に外国船が出没するなどの事件に対応を迫られることとなる。とはいえ、その中でも最も幕府にとって、日本にとって痛かったのはおそらく「ペリーの来航」だっただろう。なお、以下の話は浸透襲撃という人の動画でみたことのうろ覚えである。
なぜペリーが軍艦で世界の反対側(つまり世界地図の左端)からやってきたことがそんなにオオゴトだったのだろうか? 江戸幕府は何を恐れたのか? 確かに、当時の日本には海軍力がなかった。上述のように四方を激しい海に囲まれていて必要なかったからである。
しかし、大急ぎで大砲などを海岸に設置し、軍艦が近寄っても対抗できるような措置を取った。仮に軍艦が艦砲射撃をおこなったとしたら、その被害は甚大かもしれないが、江戸幕府にとってはむしろ相手に賠償請求できる口実になったかもしれない(例えば薩英戦争では、英国艦隊が薩摩の市街地を艦砲射撃したことに対し、英国議会で非難があったともいう)。それに軍艦といってもたったの四隻であり、日本が助けなければ補給もない状況で極東の海に何ヶ月もいられないであろう。多少の攻撃はするかもしれないが、捨て置けばよいのではないか――。
しかし、江戸八百八町を収める幕府にとっては、そういうわけには行かなかったのである。なぜならば、ペリー艦隊4隻が江戸湾の出入り口に居座られたら江戸の物流はそれだけで崩壊するからだ。というのも、ご存知のように江戸は世界有数の百万人を超える規模を大都市圏であり、大消費地であるからだ。そこに他の地域から食料などの物資を運び込むには海岸伝いの海運に頼るしかない。そしてこの海運は毎日食べる江戸の人々の食を支え、人口を維持するために一日足りとも欠かすわけにはいかないのである。
しかし、江戸湾の入り口を外国の軍艦が封鎖するとどうだろうか。もはや民間船は入ってこれない。たとえ陸地から砲撃を始めたところで、すぐに場所を移動して、砲撃が止んだら戻ってくるだけのことである。そんなことをしている間に江戸の人々は飢えてしまい、パニック状態が生じる。ペリー艦隊は艦砲射撃などせずとも江戸を兵糧攻めにできたのである。
(1,313字、2024.01.21)